2006年09月15日

オリジナルなき翻訳

FRIDERICUS NIETZSCHE,(フリデリクス・ニーチェ)
de vita sua.(彼の人生について)
  ドイツ語訳。

 自分の名をラテン語化するばかりか、オリジナル自体を「翻訳」に擬装すること。それは自著を起源なき分身たらしめようとすることである。
岡村民夫『旅するニーチェ リゾートの哲学』


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2006年09月11日

ビデオというメディウム(2)

ビデオアートはフィードバックにひとつの特性をもっている。言い換えれば、「瞬時のリプレイ」だ。そしてクラウスの言及には次の言葉が挿入されている。「事実、このリプレイの外では字義通り現実に存在しないような作品の創造なのである」。だがビデオ・アーティストたちの作品はこの永続するループに亀裂を入れるような、三つの作例を提示しているという。

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2006年09月04日

戦後と科学

 風景を風景として眺める態度を変えなければ、新しい道は開けない。風景という言葉につきまとった古い風景感覚から脱皮しないことには、と私は思った。日本人は意外に言葉を感覚的にうけとりやすい。(223頁)

 自然と自分という位置にたって、私はどのような態度でのぞんだらよいか。自然を眺めることも、融合することも、征服することも、私の方法ではない。自然に情緒を託すことも、溺れることも好まず、征服できるものだとも思わない。まず自然の実態を科学的に見つめること、そして理解を深めることを「日本列島」の重点として歩き始めた。(224頁)

濱谷浩『潜像残像』河出書房新社
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magical

先日、朝日新聞社に用があり築地市場へ。
帰りに六本木に寄り、芋洗坂のギャラリー街へ出向く。

今年初頭にオープンした「magical ARTROOM」*1は、今日たまたま山口聡一「More Than Paradise」展のオープニング・レセプションだった。ロールシャッハのように対照的な構図で描かれたペインティング作品が並ぶ。ただ、細部をみるとけっこう荒いし、僕は好きになれなかった。一度ゲイリー・ヒュームを見たことがあるが、クオリティはこちらの方が断然高い。


*1:市原研太郎氏以下5名の運営メンバー、事務局は京都造形芸術大学という異色のギャラリー。
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2006年09月03日

ビデオというメディウム(1)

 『オクトーバー』誌は1976年の春号が創刊号で、*1そこでクラウスは「ビデオ:ナルシシズムの美学」という論考を寄せている*2。アネット・マイケルソンとの共同主催としてこの雑誌を立ち上げたクラウスは、映画とは別に、70年代に一般に普及しつつあったビデオという新しいジャンルの分析を試みている。

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2006年06月18日

ベンチとカタログ

1968年にMoMAで開かれたグループ展、「The Art of the Real」がイギリスに巡回したときのお話。

あるスコットランドの批評家が、「モリスさん、ごめんなさい。僕はベンチだと思ってしまって!」と自分がロバート・モリスの作品に座ってしまったことを皮肉たっぷりに書き連ねた。これにジェームズ・マイヤーは、作品の狙いとして「座る」ことが組み込まれているにもかかわらず、この批評家は理解できなかったと、これまた皮肉をこめて述べている。

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なにかデュシャン的、いやウォーホル的な化かし合いの一例にも見えるこのエピソード、もちろんそういう意味合いはあるのだけれど、この批評家が作品だと気がついたのは、展覧会カタログを見たから、という点がミソ。カタログは一種の認知のための装置として、この批評家には働いた。

たしかに、展覧会カタログは展覧会そのものよりも、作品を厳密に規定する。なによりも写真と頁が作品の限界をある程度設けているのだから、当然か。展覧会会場ではキャプションが同様の機能を担っているわけだけど、観者にとってまず最初に目にするものじゃない。「このキャプションが指している作品ってどこにあるの?」なんて事態はままある話で、結局わからないからいいや、とスルーしてしまう。そして、買ってかえったカタログを見返したときに「ああ、あれ作品だったの」と記憶を辿る。いや、現実はもっと残酷かもしれない。「こんなの会場にあったっけ?」。

デリダが「パレルゴン」と言い、ジュネットが「パラテクスト」なんて名付けて問題にした、付属物の機能。ただ、それらは事後的に機能する、という意味での重要性なのかもしれない。それまではおそらく規定していなかったものが遡及的に規定の機能を得て、もういちど活性化される。表象(re-presentation)、つまり再出現はこのようにしておこって、失われた対象を言葉によって復元しようとする。すると僕らのなかで存在=作品としての判断がようやく完成されることになる。

スコットランドからやってきた批評家は、カタログから事後的に、作品として認知した。しかし、それはダダ的なトリックとして、である。どちらにせよ、モリスの作品を現象学的に経験するなどとはつゆにも思わなかっただろう。もっと不幸な例はジョン・マクラッケンだ。モリスはまだベンチとして使われていたが、厚板を壁に立てかけるマックラケンの作品は、ギャラリー・スタッフに資材と勘違いされて倉庫行きとなってしまった。だから当時のイギリスの人々にとって、マクラッケンはカタログでのみ存在する作家である。

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2006年06月13日

Africa... Dismix

1.

アフリカに関して私の知るところは少ない。アフリカに繋がるといえば、つい数ヶ月前に親しい友人が青年海外協力隊としてザンビアに向かったこと、フランシス・ベイコンが1950年代をモロッコのタンジールで過ごしたこと、南アフリカ出身のマルレーネ・デュマスが数年前にベイコンのオマージュ展を開いたことくらいだろうか。とはいえ、どれも間接的な関わりである。その意味でいえば、『20世紀美術におけるプリミティヴィズム』展カタログの内容と、それほど変わりはないのだろう。ただし、私のなかでは西洋人特有のエキゾチズムをもちあわせていない。だからジャポニスムもプリミティヴィズムも、個人的感慨には結びつくことはなかった。憧れとは絶対的距離を伴った解釈の産物である。だが、今の時代その距離はほとんどなし崩しにされている。ザンビアに行った友人はミクシィなどで頻繁に連絡を取りあえる状態だし、むしろ地理的には近場にいるはずの級友方が接触をもつには難しい。そもそも友人がザンビアに派遣された理由は彼の地のITインフラ整備で、「情報」に限っていえば今後より一層関係は深まるだろう。西洋の最新情報も日本の現状も、ある程度は現地の作家でも入手することができる。こんな次第で、森美術館に巡回してきた「アフリカ・リミックス」展の出品作品は、すでにコンテンポラリーという情況下にしてホワイトキューブの洗浄力で一緒くたにされ、マックス・ウェーバーよろしく「脱魔術化」されている、と“一瞬”私の眼には映った。本展の展覧会カタログは、写真図版で並べられるが故に、なおのこと時空間の並列化は進んでいる。

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2006年05月09日

ループ(0)

カントールの美しい戯れとツァラトゥーストラの美しい戯れとの接触はツァラトゥーストラにとって致命的なものである。もしも宇宙が無限数の項からなるとすれば、厳しくも、無限数の組合わせをも包蔵し得ることになり――回帰の必然性は打ち砕かれてしまう。それはたんなる可能性にとどまり、それさえも零と計算されかねない。
ホルヘ・ルイス・ボルヘス 『循環説』


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2006年05月08日

automation (Re:)

たとえばオートマティスム。
たとえば即興性。
たとえばハプニング。
たとえばコンセプチュアリズムの写真利用。
たとえば無名性。
たとえば絶対非演出の絶対スナップ。
たとえばドロッピング・プロジェクト。

これらの差異はいくらでもあげられる。
しかし共通項はなんだろう?
作者の死か?偶然性か?外部性か?

私にはすべてオートメーションに見える。
つまりなんらかの機械神話の痕跡。
霊的な何かや、無意識の表出なんて代物じゃない。

アートは、アルスを語源として技術と不可分の存在だった、という。
20世紀、技術者の能力は熱狂のもとに人間から神へと移譲された。
それは一方でファシズムの根幹に触れていないだろうか。
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2006年04月24日

アンフォルム覚書

鶴川が人々に好感を与える源をなしていたいかにも明朗なその容姿や、のびのびした体躯は、それが喪われた今、またしても私を人間の可視の部分に関する神秘的な思考へいざなった。我々の目に触れてそこにある限りのものが、あれほど明るい力を行使していたことのふしぎを思った。精神がこれほど素朴な実在感を持つためには、いかに多くを肉体に学ばなければならぬかを思った。

禅は無相を体とするといわれ、自分の心が形も相もないものだと知ることがすなわち見性だといわれるが、無相をそのまま見るほどの見性の能力は、おそらくまた、形態の魅力に対して極度に鋭敏でなければならない筈だ。形や相を無私の鋭敏さで見ることのできない者が、どうして無形や無相をそれほどありありと見、ありありと知ることができよう

かくて鶴川のように、そこに存在するだけで光を放っていたもの、それに目も触れ手も触れることのできたもの、いわば生のための生とも呼ぶべきものは、それが喪われた今では、その明瞭な形態が不明瞭な無形態のもっとも明確な比喩であり、その実在感が形のない虚無のもっとも実在的な模型であり、彼その人がこうした比喩にすぎなかったのではないかと思われた。

たとえば、彼と五月の花々との似つかわしさ、ふさわしさは、ほかでもないこの五月の突然の死によって、彼の柩に投げこまれた花々との、似つかわしさ、ふさわしさなのであった。
三島由紀夫 『金閣寺』
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