FRIDERICUS NIETZSCHE,(フリデリクス・ニーチェ)
de vita sua.(彼の人生について)
ドイツ語訳。
自分の名をラテン語化するばかりか、オリジナル自体を「翻訳」に擬装すること。それは自著を起源なき分身たらしめようとすることである。
岡村民夫『旅するニーチェ リゾートの哲学』
FRIDERICUS NIETZSCHE,(フリデリクス・ニーチェ)
de vita sua.(彼の人生について)
ドイツ語訳。
自分の名をラテン語化するばかりか、オリジナル自体を「翻訳」に擬装すること。それは自著を起源なき分身たらしめようとすることである。
風景を風景として眺める態度を変えなければ、新しい道は開けない。風景という言葉につきまとった古い風景感覚から脱皮しないことには、と私は思った。日本人は意外に言葉を感覚的にうけとりやすい。(223頁)
自然と自分という位置にたって、私はどのような態度でのぞんだらよいか。自然を眺めることも、融合することも、征服することも、私の方法ではない。自然に情緒を託すことも、溺れることも好まず、征服できるものだとも思わない。まず自然の実態を科学的に見つめること、そして理解を深めることを「日本列島」の重点として歩き始めた。(224頁)濱谷浩『潜像残像』河出書房新社
カントールの美しい戯れとツァラトゥーストラの美しい戯れとの接触はツァラトゥーストラにとって致命的なものである。もしも宇宙が無限数の項からなるとすれば、厳しくも、無限数の組合わせをも包蔵し得ることになり――回帰の必然性は打ち砕かれてしまう。それはたんなる可能性にとどまり、それさえも零と計算されかねない。
鶴川が人々に好感を与える源をなしていたいかにも明朗なその容姿や、のびのびした体躯は、それが喪われた今、またしても私を人間の可視の部分に関する神秘的な思考へいざなった。我々の目に触れてそこにある限りのものが、あれほど明るい力を行使していたことのふしぎを思った。精神がこれほど素朴な実在感を持つためには、いかに多くを肉体に学ばなければならぬかを思った。
禅は無相を体とするといわれ、自分の心が形も相もないものだと知ることがすなわち見性だといわれるが、無相をそのまま見るほどの見性の能力は、おそらくまた、形態の魅力に対して極度に鋭敏でなければならない筈だ。形や相を無私の鋭敏さで見ることのできない者が、どうして無形や無相をそれほどありありと見、ありありと知ることができよう。
かくて鶴川のように、そこに存在するだけで光を放っていたもの、それに目も触れ手も触れることのできたもの、いわば生のための生とも呼ぶべきものは、それが喪われた今では、その明瞭な形態が不明瞭な無形態のもっとも明確な比喩であり、その実在感が形のない虚無のもっとも実在的な模型であり、彼その人がこうした比喩にすぎなかったのではないかと思われた。
たとえば、彼と五月の花々との似つかわしさ、ふさわしさは、ほかでもないこの五月の突然の死によって、彼の柩に投げこまれた花々との、似つかわしさ、ふさわしさなのであった。