罔両(うすかげ)が影にむかって問いかけた。
「君は先ほどは歩いていたのに今は立ち止まり、先ほどは座っていたのに今は立っている。なんとまあ節操のないことだね」
影は答えた。
「僕は(自分の意思でそうしているのではなくて、)頼るところ(人間の肉体)に従ってそうしているらしいね。
(ところが)僕の頼るところはまた別に頼るところに従ってそうしているらしいね。僕は蛇の皮や蝉のぬけがら(のようなはかないもの)を頼りにしていることになるのだろうか。
さて、なぜそうなのか分からないし、なぜそうでないのかも分からないね。」※ 罔両――影のまわりにできる薄い影。当然、影の動きにつれて動く。(「斉物論」金谷治訳注『荘子 内篇』岩波文庫所収)
2011年08月28日
罔両問景
2006年09月15日
オリジナルなき翻訳
FRIDERICUS NIETZSCHE,(フリデリクス・ニーチェ)
de vita sua.(彼の人生について)
ドイツ語訳。
自分の名をラテン語化するばかりか、オリジナル自体を「翻訳」に擬装すること。それは自著を起源なき分身たらしめようとすることである。
岡村民夫『旅するニーチェ リゾートの哲学』
2006年09月04日
戦後と科学
風景を風景として眺める態度を変えなければ、新しい道は開けない。風景という言葉につきまとった古い風景感覚から脱皮しないことには、と私は思った。日本人は意外に言葉を感覚的にうけとりやすい。(223頁)
自然と自分という位置にたって、私はどのような態度でのぞんだらよいか。自然を眺めることも、融合することも、征服することも、私の方法ではない。自然に情緒を託すことも、溺れることも好まず、征服できるものだとも思わない。まず自然の実態を科学的に見つめること、そして理解を深めることを「日本列島」の重点として歩き始めた。(224頁)濱谷浩『潜像残像』河出書房新社
2006年05月09日
ループ(0)
カントールの美しい戯れとツァラトゥーストラの美しい戯れとの接触はツァラトゥーストラにとって致命的なものである。もしも宇宙が無限数の項からなるとすれば、厳しくも、無限数の組合わせをも包蔵し得ることになり――回帰の必然性は打ち砕かれてしまう。それはたんなる可能性にとどまり、それさえも零と計算されかねない。
ホルヘ・ルイス・ボルヘス 『循環説』
2006年04月24日
アンフォルム覚書
鶴川が人々に好感を与える源をなしていたいかにも明朗なその容姿や、のびのびした体躯は、それが喪われた今、またしても私を人間の可視の部分に関する神秘的な思考へいざなった。我々の目に触れてそこにある限りのものが、あれほど明るい力を行使していたことのふしぎを思った。精神がこれほど素朴な実在感を持つためには、いかに多くを肉体に学ばなければならぬかを思った。
禅は無相を体とするといわれ、自分の心が形も相もないものだと知ることがすなわち見性だといわれるが、無相をそのまま見るほどの見性の能力は、おそらくまた、形態の魅力に対して極度に鋭敏でなければならない筈だ。形や相を無私の鋭敏さで見ることのできない者が、どうして無形や無相をそれほどありありと見、ありありと知ることができよう。
かくて鶴川のように、そこに存在するだけで光を放っていたもの、それに目も触れ手も触れることのできたもの、いわば生のための生とも呼ぶべきものは、それが喪われた今では、その明瞭な形態が不明瞭な無形態のもっとも明確な比喩であり、その実在感が形のない虚無のもっとも実在的な模型であり、彼その人がこうした比喩にすぎなかったのではないかと思われた。
たとえば、彼と五月の花々との似つかわしさ、ふさわしさは、ほかでもないこの五月の突然の死によって、彼の柩に投げこまれた花々との、似つかわしさ、ふさわしさなのであった。
三島由紀夫 『金閣寺』
2006年04月11日
記号変換
似姿[ガートルード・スタインの肖像画]は…格調高い様式で始まったが、プリミティヴな形態を利用することで変化し、歪曲された顔立ちの特徴から同一人物だと判定される習作になった。
イベリア美術のヴォキャブラリーからピカソが選び出した形態――大きすぎる目、誇張した突き出た眉毛――は、どんな『入門』書でもいまだに新米カリカチュア作者に強調するよう勧めている顔立ちの特徴そのものである。
ピカソが発明したのは、一種のクレオール、馴染みのないヴォキャブラリーを馴染みのある統語法の中に吸収した言語だった。
…ロウからハイへの移動、イーゼルに対するスケッチ帳の勝利は、プリミティヴィズムというトロイの木馬によって成し遂げられた。
アダム・ゴプニック 「ハイ&ロウ――カリカチュア、プリミティヴィズム、そしてキュビスムの肖像」
(『Art Journal』43巻4号〔1983年冬号〕)
(『Art Journal』43巻4号〔1983年冬号〕)
2006年04月07日
創造的冒涜
一般的にいえば、プリミティヴィズムの原動力は、差異と、その解消から生まれる。プリミティヴィズムは、明らかに他者であるものの意義を認めることによって、緊張感に満ちた境界線を作りだす。つまり自分たちのものとは異なった時代や文化や精神を劣ったものとみなすのではなく、そこに刺激的な差異を見出すのである。歴史や階級や人種の要求を拒否する創造的冒涜の中で、親縁性が直観され、境界線を越えた交換が生じる。
カーク・ヴァーネドー 「ゴーギャン」
周知のことだが何度も気づかされることT ―場所
すべての亡命において真実であるのは、その故郷が、そして故郷への愛じたいが失われてしまったということではなく、故郷の存在とそれに対する愛そのものの中に、すでに喪失が本来的に埋め込まれてしまっているということなのだ。
「混血」や「クレオール」や「難民」(これらすべては「場所(プレイス)」の固定的な原理が崩壊したあとの「転位(ディスプレイスメント)」の過程の中でもたらされたものである)
今福龍太 「ネイティヴの発明―場所論T」
2006年03月13日
ツーリズム批判
商品循環の副産物として、一つの消費とみなされる人間的循環、すなわち観光<ツーリズム>が生まれるが、それは結局のところ、本質的に、凡庸化されたものを見に行く余暇である。
さまざまな土地を訪れるための経済的整備は、既にそれ自体で、それらの土地の等価性を保証するものである。旅から時間を奪ったのと同じ現代化が、旅から空間の現実性を奪い去ったのである。
ギー・ドゥボール 『スペクタクルの社会』
2006年02月21日
物質の見かた―そして図式空間
写真の見方が人間の見方であるというのは一つの申しあわせのようなものである。レンズの角度は何度が最も妥当であるかはまったく疑問の中にあるのである。
しかし、世の写真製造業者はこのレンズという非人間的世界観察者を人間が見るものとして、人類の中に提出しているのである。そして、人間は逆に、レンズの見方にしたがって世界をそう思い込もうとしているのである。この見方は実に、人間が付託したところの物質の見かたである。自己がその観点を意識する個性を奔騰させる自由人間の築きあげる体系の空間ではない。
世界に単に対応関係を持っているところの徹底した「図式空間」なのである。人間集団の構成する物質の見かたなのである。
この徹底した物質的視覚としての「図式空間」から映画は出発するのである。
中井正一『美学入門』
2006年02月09日
CIRCLE
その形はあまりに単為生殖的であり、
自己閉鎖が過剰なため、
いかなる芸術的な介入も
排除する印象を否めない。
円はまた
作者である主体に
再帰的な対象との対決を迫る、
極めて根源的な試みの限界さえも
超えてしまう。
完璧な円は
人間の手によって作るしかない
という事実があるため、
その空虚さや完璧さを
向上させることも
高めることも
叶わない。
ベンジャミン・H.D.ブクロー
「抽象概念の宇宙的な具象化―オロスコの写真作品」
「抽象概念の宇宙的な具象化―オロスコの写真作品」
2006年02月06日
物質性の顕現
時間的連続が破壊されると、現在の経験が力強く圧倒的に鮮明化し、「物質的な」ものとなる。…
…そうした新しい経験が魅力的なものであれ恐ろしいものであれ、シニフィアンが孤立されることによって、それはいっそう物質的なものに――あるいはいっそう文字通りに、と言ったほうが適切だろう――なり、いっそう感覚的に鮮明なものになるということである。
フレドリック・ジェイムソン 「ポストモダニズムと消費社会」
2006年02月05日
人間の条件
苦痛と努力は、生命そのものを別に損なうことなしに取り去ることのできる単なる症候ではない。これが人間の条件なのである。
つまり、苦痛と努力は、むしろ、生命そのものが、生命を拘束している必要とともに、自らを感じとる様式である。
だから死すべき人間にとって、「神々の安楽な生活」とは、むしろ生なき生活であろう。
ハンナ・アーレント 『人間の条件』
2006年01月08日
内省
《あなたに映る青(オレンジ)の残像》 2000年
[description: スポットライトの光は壁面にオレンジの矩形を生み出し、15秒後に消失する。補完的な「残像」は同じ表面に現れる。オレンジの光の場合では、残像は青になるが、オレンジの残像を生み出す青い光源の第二作品も制作されている。それは異なった場所に、同時にあらわれることができる。(『Olafur Eliasson, Your Lighthouse: Works with 1991-2004』、ハッチェ・カンツ、2004年。なおこの作品は早川ギャラリーが所蔵している。)]
この二重に見える現象の使用を重要視する理由は、自らが見ていること〔or状態〕を見る――もしくは第三者的に自らを見ること、また実際には私たち自身から離れて、人工的な装置全体を見るという、そんな能力のことを考えているからです。主観と客観――そういった特有の質が、自らを批評する能力を私たちに与えるのです。最終的な狙いはこのことにあると私は考えています。つまり、この主題が批評的な位置を与え、この視点のなかで、自らの位置を批評する能力を与えるのです。
オラファー・エリアソン 『ダニエル・ブリンバウムとの対話』
2006年01月06日
視覚表象の位置変更
ステレオスコープを覗く者は模像 としての〔原物 との〕同一性を目にするのでも、
〔室内から外界を覗く際の〕窓枠にも似た
フレームによって保証された凝集性のある空間を見るのでもない。
むしろ、現れてくるのは、二つの 非同一なモデルへと断片化したかたちで
すでに複製された世界を、
技術的に再構成した像であり、
その二つのモデルは、
それらを最終的には
統一的で触感的なものとして知覚するという経験に、
完全に先行して存在しているのである。
ジョナサン・クレーリー 『観察者の系譜』
2006年01月05日
理解の誤解
量子論を理解できていると考えていること自体が、
量子論を理解できていない証拠である。
リチャード・ファインマン
2005年12月12日
<言分け(ことわけ)構造>と<身分け(みわけ)構造>
動物には存在しないカオスやエスや無意識が人間においてのみ発生したのは、コスモス=ランガージュ=<言分け構造>が生じて自我や意識を生み出し、<身分け構造>を破壊した瞬間からであった。
丸山圭三郎 『文化のフェティシズム』
2005年11月28日
黒と灰と白の関係
眼に暗いものが提供されると、それは明るいものを要求する。眼に向かって明るいものがもたらされると、それは暗いものを要求する。そうすることによって眼はその活発さ、対象を捉えようとするその権利を如実に示し、対象と対立しているあるものを自分自身の内部から生み出すのである。(三八節)
合一したものを分裂させ、分裂したものを合一させることは自然の生命である。これはわれわれが生きて働き存在している世界の永遠の収縮と弛緩、永遠の結合と分離、呼気と吸気である。(七三九節)
ヨハン・ヴォルフガング・フォン・ゲーテ『色彩論』
2005年11月22日
作品/アーティスト/キュレーター
インタビューを拒否し続けている理由は、作品じゃなくてアーティストが前面に出てしまうためです。作品に向かうべきなのに、知らなくてもいいようなことを話しすぎてしまうから。
ルイーズ・ローラー
2005年11月18日
それは私たち自身の中にある音楽
現実のエルシノア城と、想像のハムレット。イメージの切り返し。想像的な確実さ、現実的な不確実さ。映画の原理とは、光に向かい、その光で私たちの闇を照らすこと。ノートル・ミュージック(私たちの音楽)。
ジャン=リュック・ゴダール『アワーミュージック』