2011年09月13日

クリヴェッリの喜劇【再掲】


カルロ・クリヴェッリ(1430(35)頃〜95)はルネサンス期、ヴェネツィア派の異色画家として知られる。金属質な人物像に加え、空間は全て厳格な一点透視法を用いて描かれている。ミケランジェロを頂点として発展史的美術の系譜を位置づけたヴァザーリにおいても、クリヴェッリに対する扱いは「例外」として歴史の柵の外側におかれている。

この《聖エミディウスを伴う受胎告知 The Annunciation with Saint Emidius》においても、厳格な一点透視法は貫かれている。左の通りに跪いている天使はガブリエルであり、その隣にいる人物が聖エミディウスのようである。ガブリエルが持つ花は百合(純潔)、永遠を示す孔雀、平和を示す鳩、さらに神からの受胎を示す光線など、一般的な受胎告知の象徴形式をとっているのだが、異様なのはそのあまりに明瞭な空間である。一見厳密に一点透視法を用いているかに見えるこの空間は、受胎告知の際の天からの一筋の光線によって、パースペクティヴは一気に混乱に陥ってしまっている。

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ひとつの仮説を立ててみたい。透視図法はルネサンスを起源として始まる、と一般に言われているが、その起源は人物を斜めから捉えはじめた古代ギリシャに遡ることができる。それ以前にはエジプトのレリーフに典型的な正面性、もしくは側面性で形体は描かれていたのだが、紀元前5世紀あたりを境に徐々に斜めの構図が登場しだした。この発展は線遠近法による理論的技法ではなかったものの、その萌芽と呼べるものが芽生えだしたのは事実である。だがキリスト教が普及しだす中世になると、すでにスキアグラフィア(陰影法)すら獲得していた絵画技法が平面性の方向へ向かい出す。キリスト教の普遍への志向は現世の移ろいゆく仮象を排するかのごとく、かつての正面性と側面性を復活させた。おそらくそれは教義としての偶像否定と民衆普及との間の妥協的産物だったのかもしれない。いずれにせよ、正面・側面性は宗教的意味合いを付与され、数百年に渡って描かれ続けることになった。

時は下りルネサンスの時代が訪れ、ギリシャの遠近法は復活を遂げる。依然として宗教的主題が中心ではあるものの、その描法は科学的技術を取り入れ、かくて移ろいゆく自然の再現技術が確立されたのである。このクリヴェッリの絵画は、描かれているあらゆる構造物がアーチの奥にいる人物を中心点とした一点透視法によって支配されている。それは人間の認識を図解的に統制するかのような作業である。だがこの現世の構造に対して天上から差し込む一条の光は、最後部から発せられているにもかかわらず、線の幅がほぼ一定である(いや、むしろマリアに向かって収束している)ために、この図像を平面へと押し戻している。

我々は今や、神の受胎告知によって象徴的な平面性へと引き戻されている。よくよく見れば、天使ガブリエルの顔はほぼ側面をむき、その存在をレリーフのごとく硬直させていることに気がつく。この平面性はマリアのいる部屋の柱の面をもって頂点に達するのであるが、ここで第二の転換を余儀なくされる。というのも、レリーフが刻み込まれた柱の根本には、明らかにこの柱の見え方とは視点の違うリンゴが強調点のように置かれているのである。このリンゴの位置関係から推測すると、通りにひかれた遠近法の構図に従属しているのがわかる。それは天使が告げる受胎告知の宗教的情景を、再び現世へと連れ戻す「追放」の装置であるのだ。そして視線をとなりに移せば、最前面にはみ出した瓜によってこの情景そのものが舞台上の一場面であったこと、我々は観客で、ガブリエルもマリアも一役者であったことが判明する。

あまりにも理論的すぎる線遠近法は、ゲシュタルト心理学や認知心理学が証明しているように、我々の視覚像が形成する図像との補いがたい溝を作ってしまっている。それ故この演目は、実際にこの場で起きているのではなく、我々の認識の上でのみ演じられる舞台を示しており、観客は表面と奥行きの円環状の振幅にめまいを起こす。この絵画が避けがたい違和を生み出しているのは、そうした観念上の出来事を絵画という平面に移し替えたために起こった眼差しの捻れによるのではないだろうか。出口なき回転扉の喜劇は果てしなく続く・・・。


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2011年08月19日

ニエーレ・トローニ(Niele Toroni)


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《30cmの間隔で規則的に繰り返される50番の筆の痕跡》は私のすべての作品、すべての連作のタイトルです。これは私がすでに書いたように、文字どおりの陳述です。この表明は私の「仕事/絵画」のすべてに共通する項目です。すなわち、それがすべてを語り、もしなされた仕事を目にしなければ、何も語らず――何も語ろうとはしません――。
ニエーレ・トローニ


作品制作のメソッド
与えられた支持体の上に、50番の絵筆を用いて、30cmの規則正しい感覚で筆を押しあてる。
下地:
麻布、綿布、紙、オイルクロス、壁、床など。たいてい白地が基調である。
押しあてること:
ひとつの物を別の物の上に置き、それを覆い隠すように、そしてそこに粘着するように、あるいは痕跡を残すようにすること。
50番の絵筆:
幅50mmの平筆。

提示される「仕事/絵画」
30cmの間隔で規則正しく繰り返される50番の絵筆の痕跡。



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2006年02月06日

幼子に映る不安



Egon Schiele
ぼくは思う。
“現代的な”芸術など
ありはしない。
在るのはただ一つの芸術、
永遠に続く芸術だけである。

エゴン・シーレ

 エゴン・シーレの絵は、あたりを暗くして観るのがいい。画集にスポットライトやデスクライトを当てるのもいいし、機材があるならOHPで投影するのも手だ。もっとも今のご時勢なら、パソコンで画像をスライドするのが手っ取り早い。つまり、線を浮かび上がらせたいのだ。シーレの線。速描された、狂気とも取れる、あの筆致を。そして、内に秘めたるあの眼差しを。

 なんで今シーレかというと、友人からレイチェルズの「Music for Egon Schiele」をCD-Rにやいてもらったから。以前、同期の知人がシーレ研究をしていて、「シーレに捧げたCDがある」と聞いてはいた。最近ひょんなことからこのCDをもらい、作業中にバックミュージックとして流しているのだが、「90年代の最も美しいアルバム」と評する人もいるというこの楽曲、たしかにバックミュージックにしては感動的過ぎる。ヴィオラとチェロ、そしてピアノのアンサンブルが、かみ合うのか、不安定なのか、不意に聴き入ってしまう音色を奏ではじめる。特に5曲目、「Second Self-Portrait Series(第二期自画像シリーズ)」の激しい水流で飲み込むようなピアノの旋律が、湖底に沈んでいくわが身を連想させて、少々鬱になる。だが、そこがいい。最近テクノサウンドに慣れすぎているのか、たまにこんな曲を聴くと精神の奥底に入り込む度合いが、異常に高くなる。深入りしすぎて、抵抗してしまうぐらいに。

 シーレの絵に興味を抱いたのは、彼の自画像でも家族の絵でもなかった。先に話したシーレ研究者に見せてもらった、赤子のデッサン。産湯に浸けられた産後間もない新生児である。過酷な世に何も持たずに産み落とされた無防備な乳児を、赤裸々な、まさに赤裸々な姿として描き出している。その様に引き込まれた。レイチェルズの流れるようなピアノと彷徨うようなビオラの音色が、そんな赤子を思い出させた。自画像と題されているにもかかわらず…(人の想起とは斯様に勝手なものなのだ)。
ともあれ、もう一度シーレをみよう、そう思った。

※引用はEgon Schiele Museumより転載
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2005年12月14日

《紅白梅図屏風》の金箔、その後

 結局、初見の者には関係のない話だ。それが金箔だろうが、金泥だろうが、雅な屏風であることに変わりはない。ところが《紅白梅図屏風》に使用された金箔が実は金箔ではなかったかもしれない、という疑義が呈されて一年余り、いまだにこの論争は続いている。つい最近尾形光琳のもう一つの作品、《燕子花屏風》の調査結果は、この論争の火種を消すどころか油を注いでいるようだ。

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