そうビートたけしが言った。
一つのファクターをみつけて活用することができる人物のことを言っているのだが、要するに次のようなことらしい。
映画で、殺人者(x)が被害者三人(A、B、C)を殺害するシーンを撮るとする。通常なら三人を殺害するシーンを順々に撮っていくところだが(Ax+Bx+Cx)、因数分解する監督はこれをx(A+B+C)と解釈する。具体的には、俳優に血のついたナイフを持たせて、死体の一部でもいいから三体用意すればそれで事足りるのである。
実際にこの手法はたけしによって実践されている。その代表的なものが薬きょうをスローモーションで撮影したシーンだろう。マシンガンからこぼれ落ちる薬きょうの数だけ、人が死んでいるという隠喩である。この撮影方法はたけしが案出したもので、日本びいきのウォシャウスキー兄弟が『マトリックス』で使用したことでも記憶に新しい。
ところで、因数分解は小説において頻出する手法だともいえる。できる限り短い描写で多くの要素を表現する(かに見える)この因数分解を多用するのは、70年代後半から登場するミニマリズム小説と呼ばれる人たち。村上春樹が異例の熱意で全集を翻訳したレイモンド・カーヴァーも、その一人である。
ミニマルな要素がわかるものを一つ挙げてみる。
『出かけるって女たちに言ってくるよ』の主人公ジェリーは学生結婚して大学を中退、スーパーマーケットに就職し、友人のビルが結婚する頃には既に副支配人のポストへ向けて着実にキャリアを積んでいた。ビルはそんな友人を二十二歳にしてはあまりにも老け過ぎているな、と内心抱いている。
ある日曜日、ジェリーとビルは「ちょっと出かける」と互いの妻に言って、ドライブに出かける。二人はハイウェイを飛ばし、ビールとビリヤードを楽しんだ後、二人の女性をナンパすることになった。結局それは失敗するのだが、ジェリーはあきらめきれずに彼女たちの後を追っていく。ジェリーは二手に分かれることを提案する。「お前は右に行け。おれはまっすぐ行く。あの売女二人をはさみうちにしてやるんだ」。
そして次の文でこの話は終わる。
ジェリーが何を求めているのか、ビルにはわからなかった。しかしそれは石で始まって、石で片がついた。ジェリーはどちらの娘に対しても同じ石を使った。最初がシャロンという名の娘で、ビルが頂くことになっていた娘があとだった。
本当に、これで文章が終わってしまう。本文自体も日本語で14ページしかない。おそらく原文だと10ページもないだろう。この文章には、石の使用についての出来事がただ記述されているのみである。「使う」ことが「撲殺」であることは誰の目にもあきらかだが、カーヴァーの文章には心理描写というものがほとんど出てこない。当事者(ここではジェリー)のものはなおさら少ない。
カーヴァーはここで石(x)、女性A、Bの因数分解をしている。因数分解したがゆえに、とでも言おうか、xとA、Bの関係は希薄になっている。むしろ石の存在が殺害の衝撃よりも上回っているようにすら思える。この希薄さはアメリカの中産階級を描く際に有効に機能しているようだ。そして因数分解によって切り詰められた文章は、その裏に何かが含まれている「ように思わせる」ことに成功している。
この事態は、ミニマリズムという用語が生まれた美術の文脈でも経験済みである。ロバート・モリスの作品にマイケル・フリードが批判したように、一瞬にして把握することのできない対象を鑑賞者がギャラリーをめぐって補完するという作業が、鑑賞者にある部分を依存しているという意味でいかようにも解釈される。カーヴァーの表現はとても暗示的だし、見えない部分を示唆する開口部だけを提示しているのである。

このように読むと、なにかアメリカの70年代という時代性を感じさせる。開口部から何かが覗いている。しかし一体何が?小説からは、それに関する情報はほとんど取り出せない。情報を取り出すのは、むしろ僕ら自身からである。
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