ゴードン・マッタ=クラーク
Splitting それはイリュージョニスティックではない
→身体的な活動性 外部にある何かとつなげるものではない。
最初批評家たちから“split”が70年代のアメリカの生活の隠喩ではないかと誤解された
・まるで家を引き裂くことが国の危機的状態を表現しているようだ。
・女性に対する性的な、家庭的な攻撃…家にたいする「完全なレイプだ」
・安全や避難場を表す家がsplitによって危機にさらされる
→家の隠喩…安定、恒久、安全 郊外の家の神話…アメリカの中産階級の夢
二つのイデオロギー…プライバシーと避難場所
開拓の時代、郊外は大都市と区別されてはおらず、「第二の」都市と(実際最近まで)考えられていた。
アメリカの郊外における第二の歴史的な脚光は19世紀中庸に始まった。富裕層は都市から離れ移動し始めた。
エントロピー
60年代のアメリカの大学ではル・コルビュジェに熱狂的な焦点が当てられていた。
それ故一方では「アカデミー・コルブ」と揶揄されていた。
57年、5分冊のコルヴィジェ全集が出版され、続いて65年の彼の死後、
60年代においてこの建築家の新しい画一的評価が探し求められた。
巨匠の教えを狂信的に受けるように、コルビュジェとフランク・ロイド・ライト(ミースも)の一面的な捉え方をし、教育熱が高まっていた。
しかしコーネル大学ではコルビュジェの異なった側面を扱っていた。(コーリン・ロウによって)
ロウにとって、コルビュジェは「新人文主義的な建築のシステマティックな脱構築や制作のための方法論を確立した唯一のモダンの実践者」とみなされていた。
70年代、ロウのコルビュジェ観は無視された。
コンテクスチュアリズム(文脈主義)…都会の哲学
…カール・ポパーの「開かれた社会」…反決定論、反ユートピア 歴史的知識の評価は「増加していき、断片的で偶発的」…ヴァールブルグ研究所の新人文主義的構造に似ている
コンテクスチュアリズムは二つの一般的に認知された都市の建築イメージを緩和する。
1.開かれた空間のある伝統的都市は「個体的な塊を獲得する」
2.コルビュジェの「公園の中の都市」…開かれた空間に自律して立つ孤立したビル
新人文主義は種類や文脈の観念を通して、都市を人間と見立て、それに「場」を与えること、与えられた場所に埋め込むこと、という要素を持っている。
マッタ=クラークの「場の両義性」という言葉はロウのコンテクスチャリズムの避けられない要請を回顧的に述べているのか?…建物と場所の間にある擬人的関係
「表面のフォーマリズム」…他の同業者たちが支持していた建築に対する社会的回答に抗して、信奉していた人たちの「主に、建築の平面性、表面、薄さ、そして透明性」などのフォーマリズムの関連への反応として述べた言葉
●だが最終的に、彼の声明は判断不可能であり、建築的な時代精神によって揺れ動かされていたものではないことに我々は注意しなければならない。
60年代後半から多くの重要なアーティストたちがコーネル大学に集う
J.B.ヴァン・クレフと彫刻家ウィル・インスレイ(建築としての彫刻という授業を行っていた)
アラン・サレット、ルイーズ・ローラー、スーザン・ローゼンバーグ
そしてマッタ=クラーク
70年代初頭の芸術実践において仮想的「起源」としてコーネルのロマン主義化となったものは1969年2月の「アース・アート」展である。
「アース・アート」「ランド・アート」と呼ばれるようになった最初の展覧会というわけではないが、この展覧会は大雑把に言って一般的にサイト・スペシフィックな芸術や概念主義的な実践の斬新で批評的な形をとったものとして認識されている。
ウィロビー・シャープ…ニューヨークに拠点を置く批評家であり、影響力のあったコンセプチュアル・アートの雑誌『アバランシュ』の編集者
彼の独創的な考えに基づく展覧会
独特の地勢とアンドリュー・ディクソン・ホワイト美術館のディレクター、トーマス・レーヴィットのアカデミックで官僚的な了承を受けてコーネル・キャンパスを選択し、シャープは本来の場所で作品を構成するためにこのキャンパスへ10人のアーティストたちを招待した。
ロバート・モリス
マイケル・ハイザー
デニス・オッペンハイム
ハンス・ハーケ
ロバート・スミッソン 他
イサカの地には生の物質(自然)が豊富で、東海岸では最高の地だったとシャープは述べる
美術館と外部の場所の二点で制作を行うことが展覧会のコンセプトとして求められた。
この展覧会は60年代中頃から登場してきたサイト・スペシフィックの芸術についての総括的な議論が鍵となっていた。
現象学的な場の特殊性の実践として読む…場所の観念は身体と空間の交差的な織り込みに依存している
鑑賞性における二つの関係付けられたモデルは、この手続きに由来している
一定の空間を占める合計された基盤に訴えるために、そしてコミュニティの総括された観念をもった同一の広がりのある場所について考えることで、特殊な場にとっての作品制作をみる
つまり、いかにスミッソンが理論化した「サイト」と「ノン=サイト」という非常に難しいこの同時間的実践に対する貢献から出発するのか、ということである。
サイトとノン=サイトの間の複雑な弁証法は、作品を本来の場で、外部の場所の変動する範囲のなかで作り、そして「室内の」アースワークとして提喩的な転置がこのギャラリーの空間の内部でフレーム化されたということ
マッタ=クラークはスミッソンと出会う
Gordon Matta-Clark, Splitting: Four Corners, 1974.