2006年01月18日

絵画の準備を?(1)

ready_p.jpg 週末にバタイユに関するレクチャーを聞きに青森に行ったこともあって、本を読む契機が関心とは別の方向へ流れていたけど(実際僕にとってバタイユが本質的なものじゃないと思い至った、という点で有意義ではあったが)、今日はその反動に見立てて岡崎乾二郎、松浦寿夫両氏の『絵画の準備を!』を読み始めた。ひとまず一章「純粋視覚の不可能性」を読み終える。


 対談形式で進む本書はこの手の本にしては比較的読みやすいが、忌憚なく話す両氏の会話は痛快で、それゆえ麻薬にも近い刺激が逆に警戒心を育むことにもなった。岡崎氏の発言は無反省に受け入れてしまいそうになる明快さがある。松浦氏の発言が少ないのは、そうした岡崎氏のカリスマ性に思わず聞き手に回ってしまう所作ゆえだろう。だから本書はほぼ岡崎氏の著作と言ってもいいかもしれない。相変わらずのカント主義的見解が10年以上前の対談にも現れているものの、問題提起としては鋭い点が多かった。本書が人口に膾炙する理由はそこにあるのか。ともあれ論点のいくつかを挙げて、あれこれ考えてみたい。

 まず本章のタイトルにもなった「純粋視覚の不可能性」について。それは誰もが同じ像を見るような普遍的な視覚を再現する、という理想を断念することからモダニズムは始まったとする意見。これはある意味で正しいだろう。しかし、その基点を印象派とするには留保がいる。ジョナサン・クレーリーはこの点を批判して、観察者の視覚認識の変化を19世紀初頭に登場する視覚装置群(例えばステレオスコープなど)に求めたはずだ。とはいえこの書籍の邦訳が彼らの対談の二年後ということを考えれば、まだ考慮の余地があるだろう。むしろこれを“あえて”不問に付して、そういった19世紀の変動が絵画に伝播したと見れば、彼らの意見はひとまず継続可能となる。余剰としての肉体。統御されない無防備な肉体の描写と絵画のマチエールという肉体性との関係。クールベの追及したレアリスムが単なる写実性と違う点はそこにある。とはいえ、何かそれらの意見はすでに了解されたものをあらためて点呼する、確認作業にも思える。

 第二点。モダニズムが問題にした平面性と、ナビ派のドニが言う平面性とは全く別物、という指摘。これは違いは分かるが説明するには難しい、と思っていた私にとって参考になった。グリーンバーグが述べる描かれていないキャンバスそれ自身がすでに絵画、というア・プリオリなものに対して、ドニの平面性は「像と画布上の物質的あり様のずれ」、つまり視覚の宙吊りである、と。決して一般化されない視覚、それが意識されたのが19世紀という時代だった。だけどその結論としてカントに回収されるような議論は、少し抵抗感がある。結局カントなのか?

 少しページを飛ばして、第三点。「開かれた」という日本独特の意味作用について。視点の多様性を「開かれた」と言ったときに無反省に「善」として働くことに、彼らは疑義を呈する。それはソンタグよろしくモラルの領域に陥ってしまい、全く受動的に観客の判断にゆだねることになってしまう。ここでケージの偶然性もが論拠に挙げられていて、どのような偶然が働こうとも、ケージが設定した一定のシステムにすべて含まれてしまうため、それは開かれているのではなく極めて閉鎖的だ、というわけだ。任意の選択は「いくら組み替えても非常に予定調和的」となる。ここで美術館の教育不可能性が述べられているが、これをさらに深化させれば、アーカイヴを一つのルールに従って「検索」することで得られる結果が、学芸員の選択とも類似することを意味する。「商品の売り方が商品になっている」という岡崎氏の言葉を言い換えれば、消費者が求めている商品を採り上げるその手法自体をパッケージとして販売することだろう。これは検索システムの販売に酷似している。「だから二十世紀美術は退屈なんです」。つまり、展覧会制度自体を問い直さなければならない。だから昨今の展覧会は退屈なのか。…本当だろうか?これはアーカイヴ論に対する問題提起といえる。

まだ読み途中ゆえ、続きます。
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posted by jaro at 05:23| Comment(0) | TrackBack(0) | 書評 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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