ビル・ヴィオラといえばスローモーションの映像を2メートル前後の大きなスクリーンに映す手法が特徴的だが、そのどれもが映像を扱っていながらも、絵画形式を踏襲している。《Nantes Tryptich(ナントの三連祭壇画)》(1992)は、三つのスクリーンに「出産する女性」「水中の男性」「死に瀕した老女」を映した映像作品だが、祭壇画という伝統形式をその下地にするという、内容と形式の齟齬(移りゆく〔エフェメラルな〕映像と、アウラを前提とした不動の宗教形式)が表されている。
動かないはずの「絵画的」人物が、数秒に一ミリという極めてゆっくりとした間隔で移動していく様は、ダグラス・ゴードンの《24時間サイコ》(ヒッチコックの「サイコ」を24時間に引き伸ばした作品)に先駆けている。それが映画だという意味で、ゴードンの作品は絵画というよりはスティル写真に相当するだろう。正確を期すれば、微妙に動くスティル写真である。
この二人の作品は、映像というジャンルが旧来のメディアに侵食していく意味で、その枠組み自体を問うものだといえるだろう。動かない映像は果たして写真なのか?トリプティックという宗教形式を用いれば、それは絵画なのか?ここでは単に絵具や薬剤をキャンバスや印画紙に乗せたり浸したりすることが問われているのではない。観者がそれを「みる」という行為に賭けられている選択なのだ。
唐突にも思えるが、上記二人の作品はロラン・バルトが「第三の意味」において述べている「意味生成性(signifiance)」に何らかの形で関わっている。「意味生成性」とは「戦艦ポチョムキン」のスティル写真で論じられたタームだが、情報伝達のレベル――指示対象としての情報(Denotation)と、象徴的なレベル――指示的な現実場面に潜む寓意(Connotation)とは別の、第三の意味として提示されている。
極度のスローモーションは、この「意味を超えた何か」を胎動するような映像で呼び込もうとしている。それは数ミリの移動の中にあらわれる微細なものとして、儚さと不動性の隙間からこちらを覗いている。二人の作品は、絵画を見る経験や写真を見る経験とはまた別の経験なのだ。
ここで強調されているのは世界がすぐさま隠蔽してしまう「身振り」であり、つかの間に過ぎ去っていく微細なものである。ビル・ヴィオラの《追憶の五重奏》(2000)は、それぞれが特徴的な5人の人物がスローモーションでいくつかの強調された表情(喜怒哀楽、等々)を浮かべる。それは「戦艦ポチョムキン」でオデッサの市民が見せる表情と重ね合わせると、極めて類似した要素を持っていることに気がつくだろう。
とはいえ、物語に抗する形での順列組み合わせ的なメディアであるスティル写真とは一線を画している。スローモーションはどんなに引き伸ばされていようとも、単線的な漸進性を有しているからだ。ロザリンド・クラウスに添う形で言えば、物語から切り離されたフォト・ノベルやコミックにこそ厳密な意味での「第三の意味」、「鈍い意味」がある。スローモーションは一方で物語性に最大限の抵抗を示しながらも、他方で静止をも拒んでいる。
この二重の抵抗こそ、メディアの境界をなし崩しにする足がかりとなる。かつ区別しておきたいのは、それはミクスト・メディアという形ではない境界の侵食だということである。安易な異種混交は民族問題でよく用いられる「サラダボール」となってしまう。ビル・ヴィオラの作品における「微細なもの」とは、「鈍い意味」を引きずりながら映画を越境していく力を有しているように、私には感じられる。