この本に掲載されている作品は、そのほとんどがフォト・ペインティングである。冬のシルスは山や木々たちが雪化粧をされ、皆押し黙るように静寂を保ち、空の深い青は大地とのコントラストを際立たせている。そんな景色を写した写真に、粘度の高い油絵具がべっとりと乗せられている。
オブリストはカタログに寄せたエッセイで、永劫回帰を引き合いに出して語る。「絵画の不可能性という永劫回帰(Circulus Vitiosus Pictus)は、描写の不可能性に打ち勝つという見せかけを引き入れることができる」。見せかけは真実に勝る直前で、すぐさま回転扉のように反転する。
だが、今一度リヒターの作品を振り返ってみると、イメージを無視するかのような絵具の一撃は、以前ほどの暴力性を持ち得ていない。樹状に広がる山肌の露出部分は、筆を荒々しく持ち上げたときの絵具の痕跡に近づいている。冬用の白い蓑をかぶった森の木々には、絵具の飛沫が雪に擬態して降り注ぐ。イメージと物質は、いまや互いに同化を望んでいるかのようだ。
望んでいる?それはリヒターの望みなのか。シルスの写真における「オイル・オン・フォト」には、明らかに「表現」に近い何かがある。よくよく見れば、リヒターは乗せる絵具を丹念に選択している。そして、各写真に見合った形で絵具をのせているのだ。
「明らかに「表現」に近い何かがある」と思う刹那、それは一転してただのシミに変化する。オブリストはイヴ・アラン・ボアの『モデルとしての絵画』を引き合いに出して、地と図の反転というイリュージョンの眩暈を指摘する。とはいえ、オスカー・ドミンゲスの「デカルコマニー」(二枚の紙の間にインクを挟んで押し付け、引き剥がしたときに生まれる形態を作品化する技法)に倣ったような二枚の写真による絵具のシミには、このイリュージョンの眩暈はそれほど発生しない。ここでは明らかに写真と絵具が分離している。
デカルコマニーというよりはむしろロールシャッハ・テストと言った方が正確かもしれないこの絵具のシミは、二つの写真が上下逆さまにされていることからも、イリュージョンの入り込む隙など存在しない。だがもちろん次のような議論も可能だろう。だからこそ、「表現のゼロ度」(清水穣)なのだ、と。
ロールシャッハ・テストには写真を用いた実験は行われない。インクのシミが作り出す形態に対し、被験者に何かを連想させるという目的には、写真のような具体的形象がすでに含みこまれている図像はむしろ邪魔な要素である。障害としての写真が地になることで、被験者のイメージ形成(Figuration)を阻害する。他方で写真自体も互いに反転させられることで、絵具のシミを写真イメージに取り込むことにも失敗する(白い絵具を空に浮かぶ雲に見立てることもできない)。このふたつの阻害が、「表現のゼロ度」なのだ、というわけだ。
だが、表現の痕跡に決定的なのは、実は形象ではない。それは色彩なのである。例えばアド・ラインハートの《抽象絵画》シリーズにも問題となる点だが、赤一色の絵画にはもはや表現の痕跡など残されていない、と一見思われるものの、それが「赤」という色彩が選択された時点で、すでにラインハートの意図は表出しているのである。観者はラインハートの絵画に直面したときに、赤にまつわる様々なイメージを心にもたげるだろう。
リヒターの「オイル・オン・フォト」は、初期のグレイ・ペインティングから一転、いくつかの色彩が登場している。この転換は、むしろ色彩の選択というリヒターの「表現」があらわれている証拠なのではないか。そしてシルスの写真には、それ以前のフォト・ペインティングに比べて色の選択が明確に見て取れる。森の雪景色には白とモスグリーンを、山脈の写真には褐色と白、といった具合に。
この色彩の選択が、絵具の暴力性を弱めているのである。絵画からの爆撃は、なにか躊躇いに近い感情によって誤爆している。それだけリヒターはシルスという地に思い入れがあるのかもしれない。『ゲルハルト・リヒター:シルス』の一連の作品は、絵画の死を宣告するわけでもなく、風景の美に回収されている。
だが、暴力性を少なからず残しているものが一つだけある。それはリヒターのセルフ・ポートレイトである。リヒターのなじみの地において、イメージを痛めつける矛先は自ら以外になかったというのは皮肉にも聞こえるが、この書籍はリヒターの心情を垣間見させるものだともいえるのかもしれない。
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