2005年12月06日

ガンダム展

 昨日は後輩にせがまれてガンダム展に行ってきました。ここで後輩を使うところが未だ抵抗があるのか、と自問自答しています。でも皆さんもすくなからず抵抗あるでしょう?あれ、ない?

gun01.jpg


 きっとこの抵抗感はアニメそのものではなくて、アニメに群がるファンの異様な熱気に原因があるんだろうと思う。企画者はガンダムの人気の秘密を「制作当初からシリアスな科学考証をベースにし…(以下略)」と語っているが、ファンの熱気の一つはこうした基礎設定資料にあり、それをもとに各自で世界観を膨らませるのが、その熱気の外側にいるものに違和感をもたらすんだろう。ワールドカップの熱狂、野球ファンの熱狂、三国志マニアの武将議論には、これに類似した要素がある。


 くわえて、いま例にあげたものがサブカルチャーの部類に入る、もしくはサブカルチャー化しているという状況もある。サブカルチャーはメインカルチャーの一段下に位置する文化として認識されているが、この関係は時代とともに変遷するのが常だ。いまや歴史・文学はサブカル化している。この傾向に沿うように、「日本史オタク」「三国志マニア」「村上春樹フリーク」という特殊化された愛好者の枠組みが発生している。今や知識は教養としての価値ではなく「好事家(コレクター)」の蒐集物として扱われるのだ。特定領域の中で行われる閉じた議論として、彼らの会話はときとして周囲に煙たがられる。批評の衰退も、もしかするとこの閉鎖性に一因があると言えるかもしれない。

 専門化した知識に特化した者、それを以前は「研究者」、もしくは「評論家」と呼んだ。いまやそれに「おたく/マニア」という別名が加わっている。広くものを知っている人を「教養人」と呼んだ時代は去り、「雑学王」というアダ名に代わった。人とは違うことが尊敬の対象のような上下関係にではなく、種族の分類のような領域的認識に変化している。こうした状況の一端に村上隆を初めとするアーティストがいたことは、ちょっと示唆的でもある。

 彼らは一方でハイ・カルチャーの領域にサブカルチャーを導入し、他方ではサブカルにハイ・カルチャーへの誘いを示すという二重の戦略を行った。村上は、両者を接近させることで価値の海抜ゼロ地点をめざすかのような動きを見せる。彼の「スーパーフラット」論がその先鞭として象徴的だ。彼によると、現代の日本文化は超二次元的だという。アニメや漫画がセル画など複数のレイヤーを統合することで一つの平面を構成するように、現代の文化もまた二次元的な束で成り立っている。そこに深さというものは存在しない。

murakami.jpg


 しかし逆説的に、深さがないにもかかわらず、独特の空間がそこに発生しているのだ。そもそも感情移入の仕方からして他のメディアと異なっている。遠近法や写実のように窓としてのフレームから奥へ向かうのではなく、アニメや漫画は一度想像の中で自己を二次元に変換するという作業を経て、初めてなりたつ感情移入なのである。それは厳密なリアルさであってはならない。厳密なリアルさは途端に「今自らが存在する現実」へと我々を引き戻させるからだ。リアルさの中の程よい抽象化が、少年少女の想像力を掻き立てることになる(現実にはありえない等身になっている村上の《HIROPON》はそれを物語っている)。

 『空想科学読本』などの書籍は、そういった抽象化がもたらす不備を科学的に検証することで我々を現実に引き戻すものの、逆にアニメや漫画の「制作者側の演出」を浮き彫りにしている点で、よりこの文化の特徴を示してくれる(ガンダムの各所に盛り込まれているパイロットスーツのバイザーを一瞬開閉させるシーンは、現実には気圧の変化で血液が瞬時に沸騰するところだが、劇中では単に空気の排出のみが描かれる)。

 ところでガンダムの息の長い人気を支えているものとして、「未成熟」という要素を挙げることができる。未成熟ゆえの進化の可能性、それがガンダムのテーマであり、ニュータイプや強化人間はまさにこの「未成熟・未完成・不安定」がキーとなっている。その点で対照的なのは、ファーストガンダムの4年後に制作された『装甲騎兵ボトムズ』だろう。この作品は明らかにベトナム戦争をその下地としており、長期化する戦争に疲弊した兵士たちの鬱屈した姿を暗たんとしたトーンで描き出している。基本的に無表情で、どこか乾いた主人公。常に繰り広げられる策略と裏切り。暴力と退廃。お分かりの通り、この作品に登場する人物たちは未成熟とは程遠い。非道な現実と直面して絶望したり割り切ったり、他者にすがることで逃れようとする者たちなのだ。この物語の戦争は実は「ワイズマン」と呼ばれる古代超文明の残したコンピュータの神が操っており、最終的に主人公キリコは戦争を終わらせるためにこの神を殺すことになるのだが(「神殺し」とはまるでニーチェのようだ)、「パーフェクト・ソルジャー(PS)」と呼ばれる強化人間や異能者の存在に嫌悪するなど完成された人間を否定し、神の死後戦争のない時代までコールドスリープで冬眠するシーンで終わるという、あまり救いのない結末を迎える。これに比べると、ガンダムのニュータイプはどこか青臭く、進化論に希望を見出していた頃の牧歌的な匂いすら感じさせる。それがむしろ感情移入を掻き立てるよい材料となるのかもしれない。

votoms01.jpg


 ガンダムを操り、幾多の敵をなぎ倒す連邦のエースパイロットが、どこにでもいる機械好きの少年だったという設定は、身近に感じさせる要素でもあり、逆にフラストレーションによってところどころでトラブルを起こすことにもなる。このギャップがガンダム人気の一つの要因であり、核でもある。そういった意味で、今回のガンダム展の出品作品の中でも田中功起の《アムロとアムロたち》は群を抜いていたと思う。マジックミラーと対面する少年少女たちを映したビデオ作品は、アムロが行っていたであろう自己問答を、現実の若者に投影させるという逆転の発想。そのビデオ映像が流れるのはアムロが使用していた場所を再現した部屋であり、そこで観者である我々はアムロを自らに投影しつつも、外部である現実の少年少女へとさらに転移させることで、アムロになる私=10代の少年少女になるアムロ=10代の少年少女になる私=私になるアムロという四構造ができあがる。まさに精神分析を行っているような、そんな気分がむしろ感情移入に向かわせないようにすら感じた。

koki.jpg


 全体の印象として、このガンダム展は先にそごう美術館などで行われた「ドラえもん展」と半ばかぶる点が多かったが、オタク化が進んでいないドラえもんはまだどこか開放性が漂っていた。ガンダムの閉鎖性は弊害と魅力が同居している。それはなかなか打ち破れないし、むしろ打ち破る必要はないのかもしれない。ただ来館者の熱狂に比べて制作者側のアーティストたちがそれほどガンダムに思い入れがないというのは、少し面白い現象だな、とは思う。

gun03.jpg
posted by jaro at 01:28| Comment(2) | TrackBack(0) | 展覧会 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
なるほど、興味深い考察です。
たしかに、私ガンダム好きで三国志好きで、なぜだか野球も選手に詳しい。(あんまり見ないけれど。)昨日、「さっき、巨人の投手の前田がいたよ。」って上司に言われ、「元中日で体の細い前田ですか?」と、とっさに口のした自分にビックリしました。
Posted by okeke-okeke at 2005年12月06日 11:01
こんにちは。
okeke-okekeさんもすごいですねー、三つ揃うとは。
僕はあまりスポーツが詳しくないんで、ちょっと羨ましいです。

これを書く前に、ちょうど三国志好きの人を思い出して「あの人どうしてるかなぁ」と耽っていました。この人水滸伝も好きで、108人の豪傑をそらで数え上げる奇特な方。熱心に僕に豪傑の一人が得意な槍術の手ほどきをしてくれました・・・(何で槍術なんか知ってたんだ?)
また会いたい人です。

遅ればせながらリンクさせていただきますね。
Posted by sai at 2005年12月07日 00:21
コメントを書く
お名前:

メールアドレス:

ホームページアドレス:

コメント:

認証コード: [必須入力]


※画像の中の文字を半角で入力してください。

この記事へのトラックバック