罔両(うすかげ)が影にむかって問いかけた。
「君は先ほどは歩いていたのに今は立ち止まり、先ほどは座っていたのに今は立っている。なんとまあ節操のないことだね」
影は答えた。
「僕は(自分の意思でそうしているのではなくて、)頼るところ(人間の肉体)に従ってそうしているらしいね。
(ところが)僕の頼るところはまた別に頼るところに従ってそうしているらしいね。僕は蛇の皮や蝉のぬけがら(のようなはかないもの)を頼りにしていることになるのだろうか。
さて、なぜそうなのか分からないし、なぜそうでないのかも分からないね。」※ 罔両――影のまわりにできる薄い影。当然、影の動きにつれて動く。(「斉物論」金谷治訳注『荘子 内篇』岩波文庫所収)
2011年08月28日
罔両問景
2011年08月24日
2011年08月23日
2011年08月21日
苦言
●写真界自体が至極混乱としている様に見えるのは、防諜の声と、アマチュア写真是非論等の、大局から見れば今更少しも慌てる必要のない、言はば「姿なき影」に怯えてのことであらうが、我々はアマチュア写真が、その進路を如何に取るべきかについて、事新しく明確にすべき必要を認めない。
●同様に、本誌の編集方針を明言しておく必要もあるまいと思ふ。実際について長い目で見ていて下されば、一番はっきりするからである。
(中略)
●も一つ、近頃苦々しく思っていることは、一種のルポルタアヂュ・フォトを提示して、アマチュアの進むべき道なりと広告宣伝されている事実である。謂はば誇大広告なり片づけて了へばそれまでかもしれないが、明朗闊達なるべきアマチュア写真人が、若しもかうした迷言に惑はされて進路を誤るやうなことがあっては気の毒である。報道写真に進むことは差支へないが、これが唯一の方向の様に誤解するのを虞れる。一部の職業写真人の中には生活のために、過去の「芸術」を捨てて急転直下、報道写真家に早変りしかけている者もあると聞いているが、何時の世にあっても、地面に確り足のついていない場合、決して立派な仕事のできる訳はないのであるから、アマチュアは迷ふべからず。(北野邦雄)(「編集後記」『写真日本』創刊号[一九四一年一月])
2011年08月20日
合併号の理由
敵米の神経戦謀略爆撃に依り止むなく先の十一十二合併号をお送りした直後又もや今月号(一、二合併号)を焼失した。折角刷了になり製本進行中の処を、と部員一同新なる憤激に燃えている。本号は右号を急速に改版印刷したるものであるが、季節的な不合理の点はご了承せられ度い。三月号は工業写真特集号にして総べての手配を終了した処にこの謀略爆撃である。同時に四月号用原稿全部と貴重なる文献と企画表をも喪失した。
この点、編集部として執筆家の諸先生を始め、一般読者諸彦に対し深甚なる謝意を表するものである。
然し、かくあるは既に覚悟する処であり戦力に影響する点は極く軽微であった事をお知らせしたい。今後も戦局益々苛烈を極むるであろうが、必勝の信念も新たに戦い続ける事をお誓いしたい。編集部(「告知!!」『写真科学』一九四五年一・二月合併号三六頁)
2011年08月19日
ニエーレ・トローニ(Niele Toroni)
《30cmの間隔で規則的に繰り返される50番の筆の痕跡》は私のすべての作品、すべての連作のタイトルです。これは私がすでに書いたように、文字どおりの陳述です。この表明は私の「仕事/絵画」のすべてに共通する項目です。すなわち、それがすべてを語り、もしなされた仕事を目にしなければ、何も語らず――何も語ろうとはしません――。ニエーレ・トローニ
作品制作のメソッド
与えられた支持体の上に、50番の絵筆を用いて、30cmの規則正しい感覚で筆を押しあてる。
下地:
麻布、綿布、紙、オイルクロス、壁、床など。たいてい白地が基調である。
押しあてること:
ひとつの物を別の物の上に置き、それを覆い隠すように、そしてそこに粘着するように、あるいは痕跡を残すようにすること。
50番の絵筆:
幅50mmの平筆。
提示される「仕事/絵画」
30cmの間隔で規則正しく繰り返される50番の絵筆の痕跡。
2011年08月18日
石津良介、編集者に
□北野君が一身上の都合でカメラ編集部員を辞される事になり、多分八月一パイで責任ある仕事は一時私が引継ぐ事になりますが、外部からの支援は相変らずやってもらう事になっております。誠に得難い協力者を失うことは残念至極ですが、強いて引き留めることが出来ない事情もあるので、不承不承私は同君の申出を受理してしまったのです。目下後任者物色中、一日も早く適任者を得度いものです。(高桑生)(「編集の前後」『カメラ』一九三九年九月号)
□協力者北野君の後継者として岡山の石津良介君を煩わす事に決定しました。作家としての石津君は改めて紹介するまでも無く、中国筋に於ける特異な存在として天下に知られて居ます。触る触るものを焼かずんばおかずという此人の熱が果して今後のカメラ誌の上に、どんな形となって現はれるか。読者諸君と俱に私も大なる期待をかけている。従来北野君担当の仕事は一切石津君に受持って貰うことにします。(高桑生)(「編集の前後」『カメラ』一九三九年十月号)
□入社のことば――このたび、高桑先生のお招きを受けて、カメラ誌編集部入りすることになった。前任北野邦雄氏のあとを受けて、果して私がどれほど此の大任をやり遂げ得るか。今迄、作家として我儘の言いたい放題、したい放題しつくして来た私が、一転、今度は編集者としての生活の中に飛び込んだのであるから全然勝手が違っていて、流石ノンビリ屋の私も、柄にもなく眼を白黒させて居るのであるが、兎に角、現在の私として、力一ぱい頑張ります。本誌のため、そして本誌何万の読者諸兄のために闘いますと、そう申上げるより外に言うべき言葉を知らないし、またそれが本当の気持ちなのである。願わくば、読者諸兄の心からなる御同情と御声援を得たいものである。
□帝都住宅難の折柄、高桑先生の御骨折りでやっと新居(新居ですゾ)に落着いた。何から何まで先生の御厄介になった形で、どうお礼申上げようもない気持である。転居通知を兼ねて、誌上でお報せする次第。どうぞよろしく。東京市外吉祥寺一九八四(石津良介)(「編集の前後」『カメラ』一九三九年十月号)
なにも言ひたくない
● これで、この欄ともお別れだが、ほっとした様な淋しい様な妙な気持に支配され、ペンが重くなる一方である。書きたいことはいくらでもある様な気もするのだが、又この場合なにも言いたくないと云った感情も大きい。
正直を云えばだまって引きさがりたいのだが、この欄を空白にする訳けにもいかないのでだらだらつまらんことを書いて、私の最後の責任をはたそう。――日暮正次――(「編集あとさき」『カメラアート』一九四〇年一二月号)
廃刊・合同に直面
廃刊・合同に直面勝田康雄
内務省提示により全写真雑誌が十二月号を最終刊として一斉に廃刊しそれぞれの面に於て総合体形を整え四個の経営体として新年号から新発足することになった。別掲共同宣言文にもある通りフォトタイムス誌と本誌とはその編集理念に於て相通ずるものがあり、合同体としての新雑誌『報道写真』が内閣情報部指導により強力な発足をなす点に於て吾々は共に旧形体を解消し、積極的に協力する根本方針を樹てたのである。だが『報道写真』誌が内閣情報部指導により国家機関の一翼として栄光ある発足をなす為にはフォトタイムスが先ずオリエンタル会社から離れることを前提としなければならない。その点については主幹田村栄氏との談合過程において充分に考慮され積極的に完全独立の体形へと組織を移行しつつある筈である。カメラアートは創刊以来五年と九ヶ月であるが一応廃刊という事実に直面しては万感交々到る思いである。フォトタイムスに到っては創刊以来十有七年の永い歴史を持っているだけにオリエンタル当局者としてこれを廃刊して手元から離して了うことは惜しい限りであろう。だがこれも時代の推移である。よりよき仕事をなす為に国家機関として捧げるという滅私奉公的精神に基き潔く同社から分離することを認めるということである。この精神あればこそ我々は共に手を取合って写真文化部門に奉仕することが出来るわけであって、その間に些かも私的曖昧さがあってはならないのである。私はこの完全独立の体形が名実ともに整えられる限りに於て全幅の協力を惜しまないつもりである。(『カメラアート』一九四〇年一二月号二五一頁)
報道からみた写真
○‥‥戦時報道の四大機関の一つである報道写真は単なる『写真の報道』ではなく『報道からみた写真』でなければならなくなったのである。本誌が報道からみた写真――の観点から編集を進めてきたこと勿論である。ここに本誌の特長もあると考えられる。(片岡生)(「編集後記」『報道写真』一九四二年八月号)
違和感
◇‥‥報道写真という言葉が、今だに僕にはどうもピンとこない、そう急にピンとこられたんでは困るのかもしれないが報道という字が妙にいかめしく見える。報道と国策性という言葉を無理に結びつけて見ようとして、そこで直観の働きが暫く待ってくれよと悲鳴をあげたのかも知れない。しかしそんなことにおかまいもなく仕事の方が、そんな僕の感性を押しつぶしてしまったという訳である。この言葉がピッタリと板につくようになれば『報道写真』も立派なものになると思うのだが、その過渡期のややちぐはぐな感じは解消されねばならない。(木村太郎)(「編集後記」『報道写真』一九四二年四月号)
◇‥‥一年有余に亙って健闘『報道写真』に赫々の戦果を挙げて来た譲サンの後を引受けてはみたものの中々難しい。新たに同志となった木村君は報道という言葉がピンと来ないと嘆いているが、僕といえども同じ一年生。いろいろと教えていただきたいし、導いて行ってください。しかし理屈はもう結構。ザックバランな男の気持ちで譲サンと共にやらして頂きます。どうぞよろしくお願いします。(片岡純治)(「編集後記」『報道写真』一九四二年四月号)
高所写真に厳罰
昭和十五年九月十七日
朝日新聞より転載
防諜精神へ協力せられたし
高所写真に厳罰
昨年十二月軍機保護法改正により地上二十メートル以上の高所からの写真撮影は禁止されているが、なお徹底していないので警視庁外事課では十五日課員及び管下各署係官を動員して上野公園、靖国神社はじめ市内十六箇所に出張取締りを行ったところ上野公園では撮影しようとして注意を与えられたもの百十五名、撮影後発見されたもの五名を始め愛宕山では六名、靖国神社境内では六十五名、日枝神社境内では一名、飛鳥山では八名、その他合せて二百三名を発見。今回だけはフイルムを没収、厳重説諭の上帰宅を許したが、今後は防諜上軍機保護法に基き厳重処罰することになった。
即ち東京について言えば全市域と島嶼部全部が同法適用地域で禁を破ったものは三年以下の懲役又は千円以下の罰金、之を交付した者は五年以下の懲役又は二千円以下の罰金、外国に報道したものは七年以下の懲役又は三千円以下の罰金に処せられる。(『フォトタイムス』一九四〇年一〇月号八八頁)