あるスコットランドの批評家が、「モリスさん、ごめんなさい。僕はベンチだと思ってしまって!」と自分がロバート・モリスの作品に座ってしまったことを皮肉たっぷりに書き連ねた。これにジェームズ・マイヤーは、作品の狙いとして「座る」ことが組み込まれているにもかかわらず、この批評家は理解できなかったと、これまた皮肉をこめて述べている。

なにかデュシャン的、いやウォーホル的な化かし合いの一例にも見えるこのエピソード、もちろんそういう意味合いはあるのだけれど、この批評家が作品だと気がついたのは、展覧会カタログを見たから、という点がミソ。カタログは一種の認知のための装置として、この批評家には働いた。
たしかに、展覧会カタログは展覧会そのものよりも、作品を厳密に規定する。なによりも写真と頁が作品の限界をある程度設けているのだから、当然か。展覧会会場ではキャプションが同様の機能を担っているわけだけど、観者にとってまず最初に目にするものじゃない。「このキャプションが指している作品ってどこにあるの?」なんて事態はままある話で、結局わからないからいいや、とスルーしてしまう。そして、買ってかえったカタログを見返したときに「ああ、あれ作品だったの」と記憶を辿る。いや、現実はもっと残酷かもしれない。「こんなの会場にあったっけ?」。
デリダが「パレルゴン」と言い、ジュネットが「パラテクスト」なんて名付けて問題にした、付属物の機能。ただ、それらは事後的に機能する、という意味での重要性なのかもしれない。それまではおそらく規定していなかったものが遡及的に規定の機能を得て、もういちど活性化される。表象(re-presentation)、つまり再出現はこのようにしておこって、失われた対象を言葉によって復元しようとする。すると僕らのなかで存在=作品としての判断がようやく完成されることになる。
スコットランドからやってきた批評家は、カタログから事後的に、作品として認知した。しかし、それはダダ的なトリックとして、である。どちらにせよ、モリスの作品を現象学的に経験するなどとはつゆにも思わなかっただろう。もっと不幸な例はジョン・マクラッケンだ。モリスはまだベンチとして使われていたが、厚板を壁に立てかけるマックラケンの作品は、ギャラリー・スタッフに資材と勘違いされて倉庫行きとなってしまった。だから当時のイギリスの人々にとって、マクラッケンはカタログでのみ存在する作家である。
