2006年04月24日

アンフォルム覚書

鶴川が人々に好感を与える源をなしていたいかにも明朗なその容姿や、のびのびした体躯は、それが喪われた今、またしても私を人間の可視の部分に関する神秘的な思考へいざなった。我々の目に触れてそこにある限りのものが、あれほど明るい力を行使していたことのふしぎを思った。精神がこれほど素朴な実在感を持つためには、いかに多くを肉体に学ばなければならぬかを思った。

禅は無相を体とするといわれ、自分の心が形も相もないものだと知ることがすなわち見性だといわれるが、無相をそのまま見るほどの見性の能力は、おそらくまた、形態の魅力に対して極度に鋭敏でなければならない筈だ。形や相を無私の鋭敏さで見ることのできない者が、どうして無形や無相をそれほどありありと見、ありありと知ることができよう

かくて鶴川のように、そこに存在するだけで光を放っていたもの、それに目も触れ手も触れることのできたもの、いわば生のための生とも呼ぶべきものは、それが喪われた今では、その明瞭な形態が不明瞭な無形態のもっとも明確な比喩であり、その実在感が形のない虚無のもっとも実在的な模型であり、彼その人がこうした比喩にすぎなかったのではないかと思われた。

たとえば、彼と五月の花々との似つかわしさ、ふさわしさは、ほかでもないこの五月の突然の死によって、彼の柩に投げこまれた花々との、似つかわしさ、ふさわしさなのであった。
三島由紀夫 『金閣寺』


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2006年04月11日

記号変換

似姿[ガートルード・スタインの肖像画]は…格調高い様式で始まったが、プリミティヴな形態を利用することで変化し、歪曲された顔立ちの特徴から同一人物だと判定される習作になった。

イベリア美術のヴォキャブラリーからピカソが選び出した形態――大きすぎる目、誇張した突き出た眉毛――は、どんな『入門』書でもいまだに新米カリカチュア作者に強調するよう勧めている顔立ちの特徴そのものである。

ピカソが発明したのは、一種のクレオール、馴染みのないヴォキャブラリーを馴染みのある統語法の中に吸収した言語だった。

…ロウからハイへの移動、イーゼルに対するスケッチ帳の勝利は、プリミティヴィズムというトロイの木馬によって成し遂げられた。
アダム・ゴプニック 「ハイ&ロウ――カリカチュア、プリミティヴィズム、そしてキュビスムの肖像」
(『Art Journal』43巻4号〔1983年冬号〕)
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2006年04月07日

創造的冒涜

一般的にいえば、プリミティヴィズムの原動力は、差異と、その解消から生まれる。プリミティヴィズムは、明らかに他者であるものの意義を認めることによって、緊張感に満ちた境界線を作りだす。つまり自分たちのものとは異なった時代や文化や精神を劣ったものとみなすのではなく、そこに刺激的な差異を見出すのである。歴史や階級や人種の要求を拒否する創造的冒涜の中で、親縁性が直観され、境界線を越えた交換が生じる。
カーク・ヴァーネドー 「ゴーギャン」
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周知のことだが何度も気づかされることT ―場所

すべての亡命において真実であるのは、その故郷が、そして故郷への愛じたいが失われてしまったということではなく、故郷の存在とそれに対する愛そのものの中に、すでに喪失が本来的に埋め込まれてしまっているということなのだ。

「混血」や「クレオール」や「難民」(これらすべては「場所(プレイス)」の固定的な原理が崩壊したあとの「転位(ディスプレイスメント)」の過程の中でもたらされたものである)
今福龍太 「ネイティヴの発明―場所論T」
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くじら構文

中学時代、どうしてもわからない英語の構文がありました。それは、いわゆる「くじら構文」。

A whale is no more a fish than a horse is.

別に構文自体が分からないんじゃないんです。例文が分からないんです。「馬が魚じゃないように、くじらは魚ではない」。ここで馬とくじらが比べられているのがどうしても納得いかなかった。

たぶんこれは範疇論の問題なんだろうけど、くじらが魚の形状に類似しているにもかかわらず「哺乳類」であることを、私たちは予め知識として知っている。だから馬と比較されても問題がないんだろう。

だけど、「馬が魚じゃないように」という具体例をあげていることからすると、どうもくじらが魚じゃないことを知らない人に、わかりやすく説明しているように聞こえる。少なくとも中学生の私にはそう聞こえた。前提を知らない人に、馬とくじらを並べて「ほら、魚じゃないでしょ」と言ったところで納得するだろうか?

一体誰が最初にくじらと馬の例文をつくったんだろう。そして何でそれが「くじら構文」と言われるほど定着したんだろう。それはいまだに謎です。
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