8月に金沢で見て以来半年がたつわけで、ここでは記憶とメモ書きをもとに映画をまとめつつ、少しバーニーについて考えてみたい。

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写真の見方が人間の見方であるというのは一つの申しあわせのようなものである。レンズの角度は何度が最も妥当であるかはまったく疑問の中にあるのである。
しかし、世の写真製造業者はこのレンズという非人間的世界観察者を人間が見るものとして、人類の中に提出しているのである。そして、人間は逆に、レンズの見方にしたがって世界をそう思い込もうとしているのである。この見方は実に、人間が付託したところの物質の見かたである。自己がその観点を意識する個性を奔騰させる自由人間の築きあげる体系の空間ではない。
世界に単に対応関係を持っているところの徹底した「図式空間」なのである。人間集団の構成する物質の見かたなのである。
この徹底した物質的視覚としての「図式空間」から映画は出発するのである。
その形はあまりに単為生殖的であり、
自己閉鎖が過剰なため、
いかなる芸術的な介入も
排除する印象を否めない。
円はまた
作者である主体に
再帰的な対象との対決を迫る、
極めて根源的な試みの限界さえも
超えてしまう。
完璧な円は
人間の手によって作るしかない
という事実があるため、
その空虚さや完璧さを
向上させることも
高めることも
叶わない。
時間的連続が破壊されると、現在の経験が力強く圧倒的に鮮明化し、「物質的な」ものとなる。…
…そうした新しい経験が魅力的なものであれ恐ろしいものであれ、シニフィアンが孤立されることによって、それはいっそう物質的なものに――あるいはいっそう文字通りに、と言ったほうが適切だろう――なり、いっそう感覚的に鮮明なものになるということである。
ぼくは思う。
“現代的な”芸術など
ありはしない。
在るのはただ一つの芸術、
永遠に続く芸術だけである。
エゴン・シーレ
エゴン・シーレの絵は、あたりを暗くして観るのがいい。画集にスポットライトやデスクライトを当てるのもいいし、機材があるならOHPで投影するのも手だ。もっとも今のご時勢なら、パソコンで画像をスライドするのが手っ取り早い。つまり、線を浮かび上がらせたいのだ。シーレの線。速描された、狂気とも取れる、あの筆致を。そして、内に秘めたるあの眼差しを。
なんで今シーレかというと、友人からレイチェルズの「Music for Egon Schiele」をCD-Rにやいてもらったから。以前、同期の知人がシーレ研究をしていて、「シーレに捧げたCDがある」と聞いてはいた。最近ひょんなことからこのCDをもらい、作業中にバックミュージックとして流しているのだが、「90年代の最も美しいアルバム」と評する人もいるというこの楽曲、たしかにバックミュージックにしては感動的過ぎる。ヴィオラとチェロ、そしてピアノのアンサンブルが、かみ合うのか、不安定なのか、不意に聴き入ってしまう音色を奏ではじめる。特に5曲目、「Second Self-Portrait Series(第二期自画像シリーズ)」の激しい水流で飲み込むようなピアノの旋律が、湖底に沈んでいくわが身を連想させて、少々鬱になる。だが、そこがいい。最近テクノサウンドに慣れすぎているのか、たまにこんな曲を聴くと精神の奥底に入り込む度合いが、異常に高くなる。深入りしすぎて、抵抗してしまうぐらいに。
シーレの絵に興味を抱いたのは、彼の自画像でも家族の絵でもなかった。先に話したシーレ研究者に見せてもらった、赤子のデッサン。産湯に浸けられた産後間もない新生児である。過酷な世に何も持たずに産み落とされた無防備な乳児を、赤裸々な、まさに赤裸々な姿として描き出している。その様に引き込まれた。レイチェルズの流れるようなピアノと彷徨うようなビオラの音色が、そんな赤子を思い出させた。自画像と題されているにもかかわらず…(人の想起とは斯様に勝手なものなのだ)。
ともあれ、もう一度シーレをみよう、そう思った。※引用はEgon Schiele Museumより転載
苦痛と努力は、生命そのものを別に損なうことなしに取り去ることのできる単なる症候ではない。これが人間の条件なのである。
つまり、苦痛と努力は、むしろ、生命そのものが、生命を拘束している必要とともに、自らを感じとる様式である。
だから死すべき人間にとって、「神々の安楽な生活」とは、むしろ生なき生活であろう。