2006年01月28日

クリティシズム覚書

 批評という語は文学の領域から盛んに議論され、「形式主義批評」「マルクス主義批評」「クイア批評」「ニュー・クリティシズム」など、多くの細分化が進んでいる。だが、それらを論じている人の中には「評論家」と名乗る人たちがいる。一方で「批評家」と自ら公言している人は、実はそれほど多くない。これは一体どういうことだろうか。「批評」についての議論にくらべて、「評論」自体を扱うことのなんと少ないことか。確かに批評の性質を問う「批評性」という語はあるにしても、評論の性質を問う「評論性」なんて語は聞いたことがない。日本特有の現象といえるが、一般に言う評論家たちは、自分の肩書きである「評論」についてどのように考えているのだろうか。批評と評論の違いはなにか。さらに「批判」との違いは?

 隣接する類義語、対義語。曖昧にされたそれらの語を並べること。そうすることで、何か見えてくるものがあるかもしれない。この記事では、上記の語に関わる言葉を見つけ次第、この場に追加していこうと思う。


増殖するリスト


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2006年01月22日

とける雪と思いはめぐる

窓から外を眺めるとすっかり雪が積もっていた。
ああ、寒いわけだ。

時計は7時を指していた。
身支度をし、タバコを持って外に出る。
コンビニでコーヒーを買い、
行く当てもないのに車に乗り込んだ。

エンジンをかけてアイドリングをする。
誰かが僕の前に現れて、
「アイドリングはいけません」と
言いにくるかもしれないな、
と思ったが、
この雪の最中にそんな奇特な人はいない。

雪の日は思考がめぐる。
徐々に温まる車内、
それにつれて融けだす雪。
そのしずくを目で追いながら、
今の状況をつかみとる。・・・
頭に思考の火線が駆けめぐる。

エンジンの振動だけが音楽。
タバコの煙は演出か。

いけない、感情は有害だ。
今いちど判断力批判を。
鮮やかなスペクトルの中の、
一条の暗線を信じよ。
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2006年01月18日

絵画の準備を?(1)

ready_p.jpg 週末にバタイユに関するレクチャーを聞きに青森に行ったこともあって、本を読む契機が関心とは別の方向へ流れていたけど(実際僕にとってバタイユが本質的なものじゃないと思い至った、という点で有意義ではあったが)、今日はその反動に見立てて岡崎乾二郎、松浦寿夫両氏の『絵画の準備を!』を読み始めた。ひとまず一章「純粋視覚の不可能性」を読み終える。


 対談形式で進む本書はこの手の本にしては比較的読みやすいが、忌憚なく話す両氏の会話は痛快で、それゆえ麻薬にも近い刺激が逆に警戒心を育むことにもなった。岡崎氏の発言は無反省に受け入れてしまいそうになる明快さがある。松浦氏の発言が少ないのは、そうした岡崎氏のカリスマ性に思わず聞き手に回ってしまう所作ゆえだろう。だから本書はほぼ岡崎氏の著作と言ってもいいかもしれない。相変わらずのカント主義的見解が10年以上前の対談にも現れているものの、問題提起としては鋭い点が多かった。本書が人口に膾炙する理由はそこにあるのか。ともあれ論点のいくつかを挙げて、あれこれ考えてみたい。

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2006年01月08日

内省

Your Blue/Orange Afterimage Exposed, 2000.
《あなたに映る青(オレンジ)の残像》 2000年


[description: スポットライトの光は壁面にオレンジの矩形を生み出し、15秒後に消失する。補完的な「残像」は同じ表面に現れる。オレンジの光の場合では、残像は青になるが、オレンジの残像を生み出す青い光源の第二作品も制作されている。それは異なった場所に、同時にあらわれることができる。(『Olafur Eliasson, Your Lighthouse: Works with 1991-2004』、ハッチェ・カンツ、2004年。なおこの作品は早川ギャラリーが所蔵している。)]

この二重に見える現象の使用を重要視する理由は、自らが見ていること〔or状態〕を見る――もしくは第三者的に自らを見ること、また実際には私たち自身から離れて、人工的な装置全体を見るという、そんな能力のことを考えているからです。主観と客観――そういった特有の質が、自らを批評する能力を私たちに与えるのです。最終的な狙いはこのことにあると私は考えています。つまり、この主題が批評的な位置を与え、この視点のなかで、自らの位置を批評する能力を与えるのです。
オラファー・エリアソン 『ダニエル・ブリンバウムとの対話』
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2006年01月06日

視覚表象の位置変更

ステレオスコープを覗く者は
模像コピーとしての〔原物オリジナルとの〕同一性を目にするのでも、
〔室内から外界を覗く際の〕窓枠にも似た
フレームによって保証された凝集性のある空間を見るのでもない。

むしろ、現れてくるのは、
二つの***非同一なモデルへと断片化したかたちで
すでに複製された世界を、
技術的に再構成した像であり、
その二つのモデルは、
それらを最終的には
統一的で触感的なものとして知覚するという経験に、
完全に先行して存在しているのである。
ジョナサン・クレーリー 『観察者の系譜』

stereoscope.gif



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2006年01月05日

理解の誤解

量子論を理解できていると考えていること自体が、
量子論を理解できていない証拠である。
リチャード・ファインマン
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2006年01月03日

ビル・ヴィオラの「微細なもの」

森美術館の年間スケジュールに、ビル・ヴィオラ展が掲載された。今年10月から開催されるという。これまで注目されながらも(ビデオ・アーティストとしては巨匠にすら位置付けられているにもかかわらず)、大規模な個展が開かれることがついぞなかった。そういった意味で、今から楽しみな展覧会だ。

ビル・ヴィオラといえばスローモーションの映像を2メートル前後の大きなスクリーンに映す手法が特徴的だが、そのどれもが映像を扱っていながらも、絵画形式を踏襲している。《Nantes Tryptich(ナントの三連祭壇画)》(1992)は、三つのスクリーンに「出産する女性」「水中の男性」「死に瀕した老女」を映した映像作品だが、祭壇画という伝統形式をその下地にするという、内容と形式の齟齬(移りゆく〔エフェメラルな〕映像と、アウラを前提とした不動の宗教形式)が表されている。

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2006年01月02日

魔睡に陥った間のポツシビリチイ

父方の実家で森鴎外を繰る。
親父殿も鴎外ぐらいは読むらしい。

少なくもそれがポッシブルである。
森鴎外「魔睡」
瑣末なことだが、音の運びが面白い。
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2006年01月01日

謹賀新年

明けましておめでとうございます。
今年はたぶん、転機になるかもしれません。
いや、そうしたい、そして良い転機を、と願って。
昨年は大変お世話になりました。
引き続き今年もArtopeをよろしくお願いいたします。

Sai
posted by jaro at 03:56| Comment(2) | TrackBack(1) | 雑記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする