2005年10月30日

爆音ゴダール

吉祥寺バウスシアターで開かれていた
「爆音ゴダールナイト」、行って来ました。
この企画はもともと音響にこだわったゴダール映画を
もっと楽しんでもらおうと音量を上げて上映するという、
なんだか血湧き肉踊る特集なのだ。

金曜に見たのは『ヌーヴェルバーグ』(1990)
うーんライブに行ってきた感覚。
カラスの鳴き声が超特大。びくついてしまった。
確かにゴダールは爆音がいいかも。

「言葉でなく、物である」(『ヌーヴェルヴァーグ』)

nouvellevague.jpg

ああ、『右側に気をつけろ』が見たかったなぁ。
この企画はVol.2も開かれるという。

そうそう、バウスのこの次は「テオ・アンゲロプロス特集」だった!
アンゲロプロスは『ユリシーズの瞳』の監督です。
これも見たい。


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東京トランスファー02

困ったこと、その2。
杉本博司にやられてしまったこと。
久しぶりに「感動」させられてしまった。
今日の予定では最後に訪れた展覧会だったが、
ポルケよりこちらが数倍楽しめた。

この「感動」が一つ目の「困ったこと」に繋がっている。
ほぼ「カタログ・レゾネ」に近い展覧会カタログ(367頁、6000円!!)
を買ってしまったのだ。なんたるトンマ。ポルケなど買わずともよかったのだ。
ああ来月のカード支払いが怖くて見られない…。

U.A. プレイハウス、ニューヨーク、1978

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posted by jaro at 04:55| Comment(0) | TrackBack(0) | 展覧会 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

東京トランスファー01

困ったことが二つある。
一つは状況的なもので、もう一つは感覚的なものだ。

今日は足掛け4つの展覧会を駆け巡った。そのうち二つは会期終了直前の「駆け込み」。本当はもっと時間のゆとりを持って観るべきなんだけれど、相変わらずの出不精が祟った。こんな強制力がなければ人を美術に向けるのは難しい、ということなのかもしれない。人とはもちろん僕のことである。

今日のスケジュールは以下の通り。
1.ジグマー・ポルケ展 上野の森美術館、上野
2.仕事の打ち合わせ、上野
3.奥村雄樹「Transfer」展 Hiromi Yoshii Five、六本木
4.さわひらき展 オオタファインアーツ、六本木
5.杉本博司展 森美術館、六本木

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2005年10月29日

ピンチ!

m.jpg

「これじゃ戦えないよ」

何でこんな状況に!?
いったい何と戦っているのか?
そしてなぜ戦っているのか?
ねずみとは誰か?

・・・

ルイーズ・ローワー、コレクションされた美術作品の行方を追い続けた、
提起型アートの作家。
彼女は80年代から本格的に活動を始めている。
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2005年10月28日

第三項排除

何ものかを排除しながらも、
その当のもの(これを第三項とよぶ)によって
ひそかに組織体や秩序が維持される。

このような排除過程は、
人間的主体の意識や
心理能力を超えて進行する。

排除過程は、
人間の尺度からみれば、
暴力的に発現するが、
同時に、
人間の尺度を越えた
自然過程の運動法則でもある。

そこに暴力あるいは排除の
消去しがたい凶々しさがある。

今村仁司 『排除の構造』  
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2005年10月27日

港千尋展

新宿、Photographers'Galleryで、港千尋さんの展覧会が開かれている。タイトルは「Augustine Bataille explosion#1:Entoptic and Ecstasy」。「オーギュスティーヌ、バタイユ爆発」その一:内在光学とエクスタシー(恍惚) ・・・?

augstine.jpgタイトルはひとまず置くとして、今回の展覧会の概要を少し描写してみたい。フランスに今もあるサルペトリエール総合病院、ここは19世紀には4千人の精神病患者が収容されていた。その患者の一人であるオーギュスティーヌ嬢を撮った写真を中心とした、いわゆる狂気に陥った人たちの写真群と、港さんが今も撮りつづけているフランスの洞窟壁画の写真がギャラリーの二つの部屋に別々に展示されている。至ってシンプルな展示方法だろう。問題はなぜこの二種類の写真群が今回の展示で結び付けられたのか、ということだ。ここが港さんのうまいところである。

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2005年10月26日

再考

芸術を変容させる写真の力を否認することで、大戦直後のアメリカにおけるモダニズム絵画は活気づけられてきた。しかし、ラウシェンバーグの作品に至ってはじめて、写真は絵画と共謀して、絵画それ自体を解体し始めたのである。

ダグラス・クリンプ「美術館の廃墟に」
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2005年10月25日

クレーの墓石に刻まれた言葉


私は内在のままでは捉えようすべもない…


モーリス・メルロ=ポンティ『眼と精神』より
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2005年10月23日

蟲師(むしし)

アフタヌーンで連載している『蟲師』のTV放映が始まった。連載当初から読んでいる漫画だが、これが結構面白い。淡いタッチに、独特の間(ま)。蟲(むし)は昆虫などではなく、生命体系の根幹部分に分類される生命体という設定。だから幽霊のように(もしくは妖怪のように)見える人と見えない人がいるし、その種類は昆虫並みに多い。日本的アニミズム、と言っていいのかもしれない。『蟲師』はそんな蟲の専門家である蟲師が活躍する物語だ。

mushishi.jpgおそらく時代は大正時代をベースとした架空の世界で、舞台は木々がうっそうと生い茂る山岳地帯。というわけで平野はほとんど出てこない。半ば「もののけ的」な魅力をもつお話だが、宮崎アニメのような少年少女が夢想する夢ではない。どちらかといえば、森の静けさをたたえ、ほの暗い闇が迫るように一瞬ぞくっとさせられる、そんな夢だ。一話完結が基本で、悲しいお話もけっこうある。恋人が蟲に引き寄せられて人の形を保てなくなったり、死んでしまったりする。だが登場人物たちはみなその運命を受け入れるように、過激な抵抗はあまりしない。見ようによっては歯がゆい気分になるが、それがこの物語の「味」でもある。読むたびに切なくなるのがむしろいい。

漫画のアニメ化はたいてい二番煎じで面白くないが、その中でも『蟲師』はクオリティーが高かった。あらすじが分かっていても、毎週見てもいいと思わせる出来栄え。お勧めです。

※『蟲師』はフジテレビ系列で毎週土曜27:45(午前3時45分)から。
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日本の建築家

もしかしたら、日本の芸術界隈で今一番もりあがっているのは建築かもしれない。

妹島和世と西沢立衛9月末、僕らの耳に飛び込んできたのは、仏北部ランスに建設予定のルーヴルの別館、通称「ルーブル・ランス」のコンペを妹島和世と西沢立衛の事務所「SANAA」が勝ち取り、設計担当となったというニュース。フランスでも女性が公共施設の設計をするのは初めてらしい。08年末に完工して09年に開館予定というから今から楽しみだ。そういえば先日あるギャラリーで岡部あおみさんにお会いしたときに、今注目するアーティストは、と尋ねるとまず妹島の名が出てきたのが印象的だった。確かにご主人が建築家でフランス生活が長いという事情もあったのだろうが(くわえて妹島が女性、というのもある)、それを加味しても妹島の活躍はめざましい。金沢は今年の夏に行ってみたのだが、今までの美術館のイメージからかけ離れている感じがした。円筒形の外観にキューブ状の部屋がつめ込まれている構造になっているけれど、幸か不幸か方向感覚が把握しづらくなっているようだった。とはいえ、円形ガラスの壁面は確かに美しい。中心部分の空間は、どこか植物園を思わせるものだった。

金沢21世紀美術館内

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2005年10月22日

84年4月16日


1984

私の絵画には対象がない。
作品自体が対象である。
作品には内容がなく、意味がない。
対象や樹、動物、人間、日々と同じように、
それらは理由も目的も目標もなく、
たんにそこにある。
問題なのはその性質なのだ
(それにもかかわらず、よい絵画と悪い絵画がある)。

ゲルハルト・リヒター

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エポケー

未来から過去のうちへと消えてゆく瞬間の
不断の流れのうちには中断、断絶があって、
この断絶や中断こそまさに、
特有のステータス、すなわち、
我々が目の前にする芸術作品や風景に
固有の現存様態を与え、
そのヴェールを剥ぎ取るものにほかならない。

われわれは、
あたかも何かの前で中断したままに
引き止められているかのようだ。
だが、この引きとめられているというあり方はまた、
いっそう根源的な次元において、
外にあること、
つまり、脱存=法悦〔ek-stasi〕でもあるのだ。

こうした
――与えておきながら同時に与えたものを隠す――
保留は、ギリシア語ではエポケー(=休止)といわれる。


ジョルジョ・アガンベン『中味のない人間』  
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2005年10月21日

ピカソの手

doisneau01.jpg

写真家ロベール・ドアノーの一枚。
《Les Pains de Picasso》(ピカソのパン)。

よく見ればすぐわかる。
パンは四つ又で、まるで手のようだ。
そしてうまい具合にピカソの両腕の傍に二つ、
テーブルに直に置かれている。

そう考えると、タイトルも気になってくる。
「ピカソ“の”パン」
・・・なぜ「ピカソ“と”パン」じゃないのか?
原題のパンのつづりを「P」から「M」に替えてみると、
《Les Mains de Picasso》(ピカソの手)
となる。なるほど言葉遊びだったのか。

しかもパンのふくらみは
画家のがっしりした手をさらに強調している、
象徴的な一枚。

ちなみにピカソの着ているボーダーシャツは、
セントジェームズ。
実はぼくも高校の頃着てました。
明治通りにお店がありましたが、さて今もあるかどうか。
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2005年10月20日

スンマ(大全)

私たちをモダンな存在として定義する視覚のうちには、
無数の細部が存在する。

写真とは細部だ。
したがって、写真は人生に似て見える。

モダンであることとは、
細部の野蛮な自律性に
心を奪われつつ生きることだ。

スーザン・ソンタグ   
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2005年10月19日

カレル・チャペック・スウィーツ

吉祥寺から五日市街道に向かい、
そこから成蹊大学がある方向へ少し行くと、
「カレル・チャペック・スウィーツ」にたどり着く。

capek01.jpg

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ガラム・ヌサンタラを吸う

先日の飲みでは色々お土産をもらったんだけど、
その中にガラムもあった。

ガラム、正式にはグダン・ガラムというらしい。
意味は「塩の工場」。
創業者が塩の(ガラム)工場(グダン)跡を買い取って、
そこでタバコを作ったことから、とのこと。
早速吸ってみる。

「ケレテック(ぱちぱち)」と箱の下に書いてある通り、
ほんとに火をつけるとパチパチと火花が散る。

のど越しはさわやか、
だけど強く吸うとひりつくような軽い刺激がくる。

匂いが独特。
確かにどこか東南アジアを思わせる香料の匂い。

喉にひりつくタバコは今まで敬遠してきたんだけど
(例えばラッキーストライクとか)
音が出るところが吸う楽しみを増してくれるし、
うまく吸えばおいしい。
そんなインドネシアのタバコです。

garam.jpg
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2005年10月18日

買うか迷う一冊。

さいきん書店で立ち止まってしまう本がある。
「きょうの猫村さん」。
ホシイ!
この微妙な描写のネコ、好きです。

nekomura.jpg

でも値段1200円を見て迷う。
む〜猫村さん高いよ〜。

nekomura2.jpg

結局まだ買ってません。だれかジャッジしてくれ!
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2005年10月17日

胃もたれ肝兵衛

昨日は久々に飲みすぎました。
7時ごろから飲み始めて結局朝6時近くまでえんえんと飲み続ける。
ほぼ半日飲んだことになるな。
でも起きがけに少し胃にもたれを感じた程度で頭痛ナシ。
だんだん昔の感覚が戻りつつあるのか?

飲み相手に夏旅行のお土産をもらう。
インドネシアとチベットのお土産。
10本入りのマールボロライト(メイド・イン・マレーシア)、
そしてYungchen Lhamoというチベット歌手のCD。
不意にお土産をもらうと、
元値以上の何かをもらった感覚になる。
これが贈与ですか?
ともあれ、お土産を買ってきてくれたことが何よりもうれしい。

tibet.jpg
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2005年10月14日

ベイコンピカソ

知人に「Bacon Picasso」の小冊子をもらった。
今年3月から5月末までピカソ美術館で開かれていた展覧会だ。

この冊子は「Reunion des Musees Nationaux」から出ているもので、
運営館の展覧会を紹介しているのだそう。

この機関、パリにある複数の国立美術館が共同運営している
出版団体で、運営館の展覧会カタログは皆ここからでている。
そういう仕組みは、美術館が多いフランスならではだと思う。

bp.jpgベイコンとピカソを比較したこの展覧会は、今まで指摘されながらも特に採り上げられてこなかった二人の画家を、本格的に検証したものだ。

正式な展覧会カタログは、残念ながらまだ手に入れていない。
採算ベースに合わないためにアマゾンなどでは手に入らないのだ。

もう会期が終了してかなり経つ。
おそらく本国にも在庫はほとんどないだろう。

なんとしても手に入れたい一冊だ。
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2005年10月13日

Konig(ケーニヒ)から

久々にバイト先に行ったら、ドイツからダンボールがたくさん届いた。
Walter Konigという出版社からだった。
いろんな本があったが、大半がドイツ語やオランダ語で人名の読み方が分からない。分かるものといえば、アウグスト・マッケ、ピーター・ドイク、ロイ・リキテンスタイン程度。
世界は広い。いろんな地域で、みんないろんなことをしている。
…バーゼルのバーで働いているドイツ人のあの子、
今頃何しているだろう?

そういえば、最近よく「Peter Fischli/David Weiss(ピーター・フィッシュリ/デヴィッド・ヴァイス)」という名を目にする。少し前にファイドンのコンテンポラリー・アーティスト・シリーズからも書籍が出ていたし、注目されているアーティストのようだ。



もうすぐゴダールの新作『Notre Musique(邦題「アワーミュージック」)』が公開される。といってもこの作品は2004年のものだという。なんだかダンテの『神曲』みたいに、三部構成になっているのがちょっときな臭い。とまれ、たぶん見るでしょう。
posted by jaro at 00:02| Comment(0) | TrackBack(0) | 雑記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする